日本の対馬の寺院から盗まれ、韓国国内に搬入された高麗時代の仏像の所有権が日本にあるという韓国最高裁(大法院)の判断が示された。
最高裁判所1部(主審=オ・ギョンミ最高裁判事)は26日、忠清南道瑞山市(ソサンシ)の浮石寺(プソクサ)が国を相手取って起こした有体動産引渡し請求事件の裁判で、原告敗訴を決定した原審を確定した。
所有権争いが起きた仏像は高さ50.5センチ、重さ38.6キロの「金銅観音菩薩坐像」。1951年、仏像の胴体の中から発見された発願結縁文に「天暦3年(1330年)2月、高麗国瑞州(現在の瑞山)に住む人々が現世で災いをなくし、福をいただき、後世には共に極楽に生まれることを望み、仏像を鋳造する」という趣旨が記されており、高麗忠粛王の治世期の1330年当時、瑞山浮石寺で作られたことが確実とされている。高麗後期の典型的な仏像様式を示す作品で、頭の部分にサントゥ(髷)があり、本来は宝冠をかぶっていたものと推定される。穏やかな笑顔と明快な目鼻立ちなど細部の造形が優れており、早くから研究者の注目を集めてきた秀作だ。学界では1352~1381年に瑞山一帯で倭寇の侵略が5回繰り返されたという「高麗史」などの記録を土台に、その時期日本に渡ったものとみている。実際に仏像を見ると、あちこちに焼け跡があり宝冠も消えたことから、大変な過程を経て日本に渡ったことが分かる。
その後、仏像は1526年から日本の対馬市の寺院「観音寺」に約400年間奉安されていたが、2012年10月、韓国人の窃盗犯が盗んで国内への密搬入を図り、翌年1月に摘発されたことで、検察に押収された。その後、現在瑞山に位置する浮石寺側が自分たちの寺から略奪された文化財だとして、占有移転禁止仮処分を申し立てており、2013年2月末、大田地裁はこれを受け入れ3年間返還を猶予する仮処分決定を下した。10年間にわたる法廷攻防の始まりだった。
猶予期間が終わった直後の2016年には、浮石寺側が有体動産(仏像)の引渡し請求訴訟を起こしたことで、所有権をめぐる攻防が始まった。仏像の本体の中から出てきた結縁文に、瑞州(瑞山)にある寺院に奉安するために作ったという内容が含まれているためだ。
1審は仏像が倭寇に略奪された事実を認め、原告勝訴を言い渡した。しかし、2審は瑞山浮石寺が高麗時代の瑞州浮石寺と同一である事実が立証されなかったと判断した。また、不法に略奪された文化財だとしても、瑞山浮石寺がこの仏像の所有権を主張できる時効が満了したとみて、原告敗訴の判決を下した。
最高裁は、瑞州浮石寺と瑞山浮石寺が同じ寺院という点は認めたが、仏像の所有権は日本の寺院にあると判決した。1953年に法人を設立した日本の観音寺はこの仏像が盗まれた2012年まで20年以上所有したため、仏像の所有権が日本の寺院にあるとみたのだ。他人の物であっても、一定期間問題なく占有したとすれば、所有権が渡ったとみる「取得時効」の法理に基づき、仏像の所有権が正常に日本の寺院に渡ったという論理だ。
どの国の民法を適用するかも争点だったが、最高裁は旧渉外司法(現国際司法)の法理に従い、取得時効が満了する時点で物が所在した地域の法律を適用するのが正しいと判断した。日本の旧民法によると、「20年間、所有の意思をもって、平穏にかつ公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得」したとみなされる。韓国の民法を適用するとしても動産に対する取得時効期間が日本の旧民法より短い10年なので、結論には影響を及ぼさない。
議論になった仏像の600年余り前の流出経緯を具体的に示す記録物や根拠は現在残っていない。観音寺の「沿革略史」にも、1526年に仏像が寺にあったという記録だけが残っている。倭寇の侵奪の歴史から見て略奪された可能性が高いという専門家の調査報告書も刊行されたことがある。
一方、大韓仏教曹渓宗は同日、声明を発表し、「判決結果に強い遺憾の意を表する」とし、「略奪して強制的に国外に搬出されたことが明らかな盗難文化財に取得時効を認めることは、常識的にも理屈に合わないだけでなく、略奪文化財の隠匿と不法占有を助長するもの」だと主張した。