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ハン・ホング教授が書く司法府-悔恨と汚辱の歴史45. 法廷騒乱

原文入力:2010-04-04午後06:57:51(4519字)
"民主化ために何をしましたか?"…裁判受けた学生, 裁判官を叱る
法廷でヤジ・スローガン・歌など日常化
担当裁判所が事件再割り当て 懇請も
‘アメリカ文化院事件’被告人 裁判拒否に
全斗煥, 当時キム・ソッキ法務長官 更迭

←1985年7月15日、ソウル アメリカ文化院占拠籠城事件の初公判は、80年代最大の法廷騒乱だった。被告人らが法廷に入るや一部傍聴客は拍手し、被告人たちは 「米国は公開謝罪せよ、我々は裁判を拒否する」などのスローガンを叫び歌を歌った。写真は当時、アメリカ文化院占拠籠城で逮捕された大学生ら。<ハンギョレ>資料写真

裁判拒否で法務長官とソウル大総長 電撃 更迭

司法府が政権の圧力で本来の役割をできないことにより、裁判所の権威は大きく失墜した。1985年からは被告人が裁判を拒否し被告人と傍聴客がスローガンを叫び歌を歌って裁判官にヤジを飛ばすことが茶飯事だった。司法府の権威は地に落ち学生運動が理念的に急進化されたことが、法廷騒乱事態を呼び起こす主要因だった。民政党事務所占拠事件やソウル米文化院占拠事件のような大型事件で数十人が一度に裁判を受けることとなり、学生たちは全員で法廷でスローガンを叫んだり歌を歌い裁判を拒否した。

1985年7月15日、ソウル米文化院占拠籠城事件の初公判(裁判長 イ・ジェフン,陪席 ソ・ミョンス,カン・イルウォン)は80年代最大の法廷騒乱だった。被告人らが法廷に入るや一部傍聴客らは拍手し、被告人らは 「米国は公開謝罪せよ、我々は裁判を拒否する」などのスローガンを叫び歌を歌った。弁護人らも被告人たちにきちんと面会できなかったとして防御権行使のために公判に応じられないと頑張った。初公判は被告人らに対する認定尋問もできずに終わった。

米文化院事件法廷騒乱はとんでもない方向に飛び火した。たまたま法務部長官キム・ソッキは外国出張を控え大統領府に行き出国申告をした。全斗煥大統領は帰り際に 「アメリカ文化院事件の公判はうまくいっているか?」と尋ねると、状況報告を受けていなかったキム・ソッキは特異事項はないと答えた後、出張激励金まで受けとり大統領府を出たという。しかし午後になって、法廷騒乱状況の報告を受けた全斗煥がいきりたち、翌日キム・ソッキを電撃解任した。一方、拘束学生に対し無期停学という‘軽い’処罰を下したソウル大総長イ・ヒョンジェも電撃更迭された。

法務長官の更迭には米文化院事件を巡る検察と安全企画部の葛藤が作用した。安全企画部は学生たちが使った‘民衆’という用語に対し 「特定階層の連合概念であり、いわゆる階級闘争の前提概念に該当するので関連者全員に国家保安法を適用しなければならない」 という意見を提示したが、検察は主導者のハム・ウンギョンだけにこれを適用し起訴したということだ。またキム・ソッキは国会で三民闘が使った民衆という用語が左傾的階級用語か感傷的意味で使われたのかは継続検討しなければならないという慎重な態度を取った。強硬な安全企画部が穏健な法務長官を快く思わなかったところへ法廷騒乱が発生するや全斗煥が安全企画部を確実に推したわけだ。

安全企画部の公判対策報告

法廷騒乱が法務長官の更迭にまで飛び火するや、裁判所と安全企画部も対策準備に腐心した。安全企画部の<籠城事件公判対策報告>という報告書によれば、裁判所は民正党乱入籠城事件公判に続き、また "猛烈な法廷内騒乱" が発生するや、これを "今後の法廷尊厳性と秩序維持の分岐点的契機" と判断し、"大法院長の陣頭指揮下に法院行政処長,大法院秘書室長,ソウル刑事地裁所長,ソウル刑事地裁首席部長判事などが随時対策会議" を行った。裁判所は「法廷は裁判官自らが守らなければならない」という基本方針の下「いかなる場合にも法廷の権威と秩序維持のために、自主的に強硬対応,円満公判を進行する方針」を立て「できる限り公判進行手続き,措置計画などは裁判所および裁判所に任せてくれという立場」を取った。安全企画部は、ソウル刑事法院長が「上部に1回公判中間報告時、被告人および傍聴客などが継続騒乱強行すればやむをえず警察権介入要請も辞さないという所信」を陳述したと付け加えた。

安全企画部報告書は続けてイ・ジェフン裁判長に対し詳しい身元事項と共に‘法曹界評判’という項目で "温順端正,国家観確固,方針決定時は強力推進する性格所有者" と記述した。報告書は "今回の裁判に対する姿勢および態度" についてこのように評価した。

△アメリカ文化院籠城事件公判こそ今後の裁判所の権威が法廷尊厳性を守れるかの試金石裁判と認識

△法廷警察権,訴訟指揮権の所信ある行使で強力な法廷秩序維持を表明

△1回の公判過程で被告人および傍聴人の騒擾,騒乱による休廷後、刑事地裁所長,首席部長判事に強力対処方針を陳述したが、むしろ上司らが今回の公判だけは忍耐するよう引き止める立場だったという

また第2回公判期日を当初方針とは異なり2週後に指定したことについて、このように分析した。

△被告人弁護団が被告人との十分な面会機会がなく弁論準備ができなかったと主張、延期申請をしてくることにより

△ひとまず弁護人などの一部の主張を受け入れ、今後の強硬対処方針の名分をたてるための措置か

△今後は当初方針通り毎週月曜公判進行,8月中に1審公判終結腹案である

裁判長の類例ない訓戒文

イ・ジェフンが1次公判で起きた法廷騒乱のために休廷した時、裁判所長および刑事首席に強力対処方針を陳述した事実を確認した安全企画部は「裁判所の指向および姿勢は全く問題ない」と評価した。実際、言論報道によればイ・ジェフンは法廷騒乱事態の再発を防ぐため「傍聴客を制限し被告人を分離審理し週3回ずつ公判を進行し早期に裁判手続きを終わらせることにするなどの対応策を用意」した。イ・ジェフンは裁判進行過程で学生たちが‘光州虐殺’にしばしば言及するやこれを‘光州事態’と変えるよう訓示したが、弁護人の1人が前に出てきて手ぶりを交えて強力抗議するや、どこに向かって指差しするのかと退廷を命じた。第7回公判では、裁判所の頻繁な制止に被告人らが抗議し12人中9人が退廷される事態が発生しもした。イ・ジェフンは弁護人の反対尋問も終えられない状態で極めて異例の事実審理終結を宣言することさえした。弁護人らは裁判所が実質的な公開裁判を進行しないなどの理由で、裁判所忌避申請を出したが受け入れられなかった。

10月2日の宣告法廷で、イ・ジェフンはきわめて異例の判決文以外に長文の訓戒文を朗読した。訓戒文は「裁判官は判決でのみ話す」という法言を破る異例のことだった。この訓戒文に対し<朝鮮日報>さえ「自分の主観および思想を過度に公表することにより、この事件に対する裁判所の先入観と予断を自ら表わしたと見られかねない」と評した。裁判が終わった後、安全企画部は‘アメリカ文化院担当判事激励方案’を模索した。安全企画部は裁判長と陪席判事など3人の判事に対する激励方案として海外旅行または激励金支援などを検討した。必ずしもこの激励方案のためではないだろうが、イ・ジェフン部長判事は裁判終了約1年後の1986年12月3日から23日まで制度視察名目で米国研修に行ってきた。

叱られる裁判官ら

<中央日報>は街頭示威を行い拘束起訴されたある女子学生が「その難しいという司法試験に合格し、法台の上に高く座っておられる判検事様はこの国の民主化のために何をしましたか」として「一日も早く懺悔して民主化の隊列に参加しなさい」と判事・検事たちを峻厳と叱る光景を報道した。主客転倒した法廷は水を浴びせられたように静かだったという。この学生は非常に礼儀正しい学生だった。当時は学生たちが履いていたゴム靴を脱ぎ裁判長に投げることも一度や二度ではなかったし、ある学生たちは分離帯を越え法台に向かって突進することさえした。傍聴客らも学生たちの過激な行動に参加した。富川署事件公判では拘束学生の母親が刑務官の帽子をとり、裁判長に投げ法廷侮辱疑惑で拘束され、以後チョン・テイル烈士の母親イ・ソソン氏とパク・ジョンチョル烈士の父親パク・ジョンギ氏も法廷騒乱で拘束されるなど、法廷侮辱で実刑を宣告されたり監置される人々の数も増えていった。

裁判所の裁判忌避

司法府に対する信頼が墜落したため、法廷騒乱は民主化以後むしろさらに荒々しく起きた。絶え間のない法廷騒乱は裁判官らに大きな精神的苦痛を抱かせた。1988年10月、ソウル刑事地裁キム・ジョンシク部長判事は、ソウル大国史学科生キム・ ハクギュの公文書変造事件に対し裁判を進行し難いとし、事件を再割り当てして欲しいと要求した。安全企画部の<法曹界動向>という1988年10月24日付報告書によれば、9月21日に開催された1次公判でキム・ ハクギュは法廷で公判期日通知書が一日前に到着し、家族や友人が傍聴できなかったとし「こういう裁判がどこにあるか」と騒動を起こした。裁判長のキム・ジョンシク部長判事はこれに慌て、裁判進行を中断し次期公判期日を後ほど指定することにした。キム・ジョンシク部長判事は、チョン・サンハク ソウル刑事地裁首席部長判事を訪ねて行き「同事件被告人から侮辱されるなど、継続して裁判進行することは困難」とし事件を再割り当てしてくれるよう懇請した。チョン・サンハク首席部長判事は「同事件を他の合議部に再割り当てできず自身が担当することに」した。

維新以後、時局事件で被告人や弁護人が担当裁判所を忌避する事例はしばしばあったが、裁判所が被告人を回避し事件が再割り当てされたことは初めてのことだった。安全企画部の報告書は「同事件の担当裁判所交替と関連し、一部裁判官および一般職員間」に形成された世論としつつ「たとえ関連被告人らが裁判所をやっつけようとしたとしても、裁判長が掌握,裁判を進行しなければならないのに、最近一部判事らが民主化ムードに便乗し、被告人らに引きずられ裁判を進行する傾向があるが、キム・ジョンシク部長判事がその手本であるようだ」と指摘した。安全企画部は「今後、難しく複雑な事件が継続起訴されるはずだが、そんな虚弱で能力のない者がどうして裁判できるか疑問であり、そのような事件に耐える自信がなければ辞表を出すのが適当ではないかというなどの非難世論が沸騰している」と伝えた。キム・ジョンシク部長判事は次の人事の1990年にソウル民事地方裁判所部長判事に配置転換されたので、当時不利益を受けはしなかったものの、1991年8月依願退職の形で法服を脱いだ。

ハン・ホング聖公会大教授・韓国史

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/214/414220.html 訳J.S