韓国のカトリック系社会運動団体である正義具現全国司祭団の非常対策委員会は、17日午後7時、慶尚南道昌原市馬山合浦区(チャンウォンシ・マサンハッポグ)の倉洞(チャンドン)交差点で「親日売国検察独裁政権退陣と主権回復のための月曜時局ミサ」を開催する。今月10日のソウル広場でのミサに続く2回目の時局ミサだ。
司祭団非対委はこの日、「主人がやらなければならない」と題する声明で「釜馬(プマ。釜山と馬山)民主抗争と4・19革命の導火線、韓国初の流血民主化運動3・15義挙の由緒ある現場で抗争と革命について考える」とし「米国の情報機関が大統領室を盗聴したことが明らかになったにもかかわらず、盗まれた者が逆に泥棒をかばっている」と批判した。
自由とは「勝手」ではなく「おのれによって尊厳を持つ」という意味
司祭団非対委は「家を借りて暮らしている人々が汚した家を掃除するのは主人だけ」とし「仲間と『競争』することなく、不義に抗して『闘争』する青年の心を大切にしてほしい」と青年たちに訴えた。
司祭団非対委は馬山教区に続き、24日水原(スウォン)教区▽5月1日光州(クァンジュ)教区などで巡回ミサを開催し、最後は8月16日にソウルで開催する計画だ。この日発表された声明は次の通り。
主人がやらなければならない
抗争と革命
釜馬民主抗争と4・19革命の導火線、大韓民国初の流血民主化運動3・15義挙の由緒ある現場で「抗争」と「革命」について考える。韓国の歴史において国を滅ぼす側は代々特権を享受してきた支配層であり、蘇らせる側は生涯人の嫌がるつらい仕事を担ってきた民衆であった。あらゆる苦労と屈辱に耐え、危機が迫れば世の罪を浄化し、人間の本来の品位を回復させるために神と連帯する働き手は私たち、私たちの真ん中にいる普通の人々だ。馬山市民たちは1960年に「李承晩(イ・スンマン)は下野せよ、一人独裁は出ていけ!」、1979年には「独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)ファッショは出ていけ!」と叫んだ。李承晩一人独裁、朴正熙維新独裁が国を汚し、国の主人たちを苦しめたから、座していられなかったのだ。結局この場所から始まった「革命」によって、この街頭で激しく繰り広げられた「抗争」によって、国も人も清浄になり、そのおかげで大韓民国は前進することができた。
自由とは何か
就任演説で自由、自由を30回以上繰り返した人物がいる。彼が追従する前任者たちも自由を強調した。李承晩も、朴正熙も、全斗煥(チョン・ドゥファン)も「自由民主主義」を掲げて権力を延長し、暴圧を弁解し、甚だしくは虐殺にまで手を染めた。答えてみよ! 自由とは何か? 自由とは「勝手に」ではなく「おのれによって」という意味だ。私は私によって、あなたはあなたによって、ゆえに尊厳があるという意味だ。自由自在ともいう。「はばかることなく勝手にふるまえる」ということではない。私は私によって自ら存在するという意味だ。問いたい。あなたは自由な、自由自在の人間か?
米国の情報機関が大統領室を盗聴していたことが明らかになった。同盟、血盟それ以上のものと信じ、頼ってきた米国が私たちの裏を探っているとは苦々しい思いがするが、大統領室の対応は見苦しい。せめて怒るふりくらいはしてもよさそうなものを「盗聴したというのは根拠のないウソ…かなりの部分が偽造されている…悪意ある盗聴はなかった…米国と協議する」と言い、盗まれた者が逆に泥棒をかばっている。さらには言論の自由より国益をまず考えよという訓戒を欠かさない。これはどういうことか。あちこちですっかり巻き上げられ(機密、砲弾)、あるいは自らすすんでささげても(第三者弁済案)平伏してばかりいる彼のことを、まっすぐに堂々と直立する自由自在の人間だと言う人は少ないだろう。何が怖くてあるものを「ある!」、ないものを「ない!」、そのような簡単なことも言えないのか、責め立ててみたところで何の役にも立たない。骨の髄まで病んだ魂が今、大韓民国の運命を握っている。
いずれにせよ主人が解決しなければならない
復活の知らせを聞いても恐れていた人々が、ついにかんぬきを外して外に出た時があった。「自己」という至上最大の壁を倒した人々が大挙出現した革命のその日を、新約聖書は詳細に記録している(使徒2、1-47参照)。「そんな人は知らない」(マタイ26、72)と言っていた人々が、私たちは他人ではないのだから「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有」(使徒4、32)しようと言って「共に生き」はじめた。命の実状を自覚した後に生じた驚くべき変化だった。神と人、私とあなた、人と自然は二つに、三つに分けうる別のものではなく、一つから生じた一つのものだ。あなたがいなければ私もいないという気づきは、まさに聖霊の炎がともした偉大な洞察だった。あなたと私が別々に生きていた過去を恥じることこそ悔い改めることであり、本来は一つなのだから一つとなって「共に生きる」ことこそ神の国だ。このように、自分だけが知り自分だけを利するという妄想から目覚めた時、大韓民国は今日の破局から脱することができる。
健康な社会であれば有力階層ほど社会を保護することに責任を感じ、公益を重視するだろう。所属する社会を保全することで、最も大きな恩恵を享受し続けられるためだ。しかし、韓国の現実はそうではない。1910年の韓日併合以来、頂上社会の指導層が備えるべき道徳性を軽く考え、利己主義ばかりにしがみつく人々が権勢を誇る風土が作られたのだ。民族の将来を自ら見出していく指導層を育成するのではなく、日本の利害を代弁する協力者集団を育てあげることが植民地教育の目標だったし、その流れは今日まで続いている。
ではどうするか。借家人が汚した家を掃除するのは主人だけだ。村の田畑が全て流されそうな時、後先考えずに飛び出していった人々が結局は国を救い、国を守ってきたということを改めて考えよう。私たちがやらなければならない。公正と常識、外交、安保、経済、福祉、すべての価値を破壊する尹錫悦(ユン・ソクヨル)の暴走はますます加速していくだろう。強者に限りなく卑屈になる事大、弱者をむごたらしく傷つけ容赦なく痛めつける冷遇はますます深刻になるだろう。順番が違うだけで、私たちみなを苦しみと不幸が襲ってくるだろう。
まず団結と連帯だ
当面は互いの困難を知り、力を合わせる団結と連帯が優先される。あちこちで殴られたり追い立てられたりする人が続出するだろう。私たちが労働者の悲しみと農民のため息を他人事だと考えている限り、尹錫悦の無謀と無礼は止まらないだろう。周囲を見渡し、いたわろう。
若者たちに訴える。仲間と「競争」することなく、不義に抗して「闘争」する青年の心を大切にしてほしい。
「物質主義の誘惑に抗い、そして利己主義と分裂を引き起こす無限競争の思潮に抗して闘うよう祈ります。新たなかたちの貧困を生み出し、労働者を疎外する非人間的な経済モデルを拒否するよう祈ります。命なる神と神の似姿を軽視し、すべての男性と女性と子どもの尊厳を冒とくする死の文化を排斥するよう祈ります」(フランシスコ教皇、2014年8月15日、大田ワールドカップ競技場聖母昇天大祝日ミサでの説教)
2023年4月17日
馬山倉洞交差点にて