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ベトナム戦争における民間人虐殺認める判決後、韓国政府は何をするのか(1)

登録:2023-02-14 02:03 修正:2023-02-14 07:31
[寄稿]イム・ジェソン|弁護士(ベトナム戦争民間人虐殺国家賠償訴訟被害者代理人
7日の勝訴判決後、グエン・ティ・タンさんがベトナムのクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の自宅から弁護団とオンラインでつないで感想を述べている=ベトナム戦争問題の公正な解決のための市民社会ネットワーク提供//ハンギョレ新聞社

 「韓国政府と参戦軍人は事実を認め、当時の事件の被害者とその家族の苦しみを軽減してください。私は8歳の頃から今に至るまでとても苦しんでいます。傷はまだ痛みます。忘れられません。事実通りに判決を下してくださることを願います。私はベトナムからここまでやって来ました。私が語ったことは事実です。嘘ではありません。裁判長、私を助けてください」

 2022年8月9日、グエン・ティ・タンさん(63)は大韓民国の法廷に出廷して最後にこう語った。1960年生まれのグエン・ティ・タンさんは1968年2月12日、ベトナム中部のクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、村を捜索していた韓国軍によって腹部を銃撃された。腸が外に飛び出すほどの深刻な怪我だったが、韓国軍が去った直後、被害者を救助するために村にやって来た米軍に助けられ、生きのびた。文字通り九死に一生を得た。その日、母親、叔母、姉、弟、甥は韓国軍によって殺害された。

2001年の当時41歳のグエン・ティ・タンさん。グエン・ティ・タンさんは「自宅の避難壕(ごう)の上から手榴弾を手に私をにらんでいたあの日のあの男のせいで、韓国の男を見るだけで鼓動が激しくなる」と証言した=コ・ギョンテ提供//ハンギョレ新聞社

55年にして認められた大韓民国の責任

 8歳のグエンさんは10カ月近く入院した末、ようやく退院することができた。その後は戦争孤児としての人生。彼女は今でも勉強することのできなかった幼少期を無念に思っている。孤独も深く、夜になると亡くなった母親に自分も連れて行ってほしいと祈ったという。

 2000年代初めから、村にやって来て頭を下げる少数の韓国人に会うようになった。彼らに指尺2つ分を越える腹部の傷を見せながら、1968年の体験を語った。2015年にはベトナム戦争での民間人虐殺の被害者として初めて韓国を訪れた。彼女の証言が予定されていた会場の外では、参戦兵士たちが「ベトコン」と叫びながらデモしていた。虐殺の記憶がよみがえってぶるぶる震えたが、逃げずに証言した。

 2020年には大韓民国を相手取って虐殺の責任を問う訴訟を起こした。今月7日、判決が言い渡された。グエン・ティ・タンさんの完璧な勝利。韓国軍が非武装の民間人に行った不法行為は証拠にもとづいてすべて認められ、被告である大韓民国の消滅時効を盾にした抗弁も、権利乱用として排斥されるべきとする判決。大韓民国の公式機関によって初めて認められた民間人虐殺。大韓民国の法廷で苦しみと真実を訴えた彼女は、この勝訴の知らせを聞いてこう語った。「虐殺された魂たちも今は安らぎを得たと思えてとても嬉しい。私は今幸せです」

 もはや加害国である大韓民国は選択しなければならない。「一審だし、判決が確定するまで待とう。たった1人の被害者の訴訟に過ぎないのだから、そんなに気にすることはない」か、それとも「司法府が戦争犯罪を認めるまで、世論化から20年あまりも政府が何もしてこなかったなんて恥ずかしい。これ以上無視してはならず、無視することもできない。政治と政策が必要だ」かの選択。無責任な無視か慎重な回答かの選択。

第3の局面にどう答えるのか

 ベトナム戦争での民間人虐殺問題は今、第3の局面が開かれた。最初の局面は、1999年に週刊誌「ハンギョレ21」の「ああ、身震いする韓国軍」と題する記事に触発されたもの。この記事には被害者たちの生々しい証言が載っており、民主化という土壌を築いてきた韓国社会はこの証言に反応した。「ごめんなさい。ベトナム」運動が始まり、市民社会団体が結集し、真実究明のための民間レベルの活動が続けられた。

2000年1月1日付ハンギョレの13面下段広告。「ベトナムの民衆に心から謝罪します」//ハンギョレ新聞社

 世論化は制度的変化にはつながらなかった。当時の記事や声明の末尾はどれも同じようなものだった。「今や政府が取り組むべきだ」。しかし、韓国政府が取り組むことはなかった。争点を引っ張っていくべき市民社会の力量も足りていなかった。ベトナム戦争での民間人虐殺は「馴染みの惨状」となり、大韓民国は改めて暴力を忘れた。社会学者のユン・チュンノは韓国社会のベトナム戦争民間人虐殺問題について、1999年までを「暴力を忘却していた時期」、2000年代半ば以降を「忘却という暴力を行使した時期」と区分する。

 第2の局面は2015年の被害者の初訪韓で始まった。世論化から15年にしてようやく被害者が初めて韓国に来れたというくらい、この問題に対する韓国社会の関心と力量は不足していた。しかし、虐殺の被害者が全国を回って証言すると、変化が生じた。最初の局面のように社会的反響が大きかったわけではないものの、法律家や学者などの専門家たちがこの問題を深掘りしはじめたのだ。「韓-ベ平和財団」という、この問題を専門的に扱う団体も韓国に設立された。

 第2の局面の重要な部分は、ベトナムの被害者たちが主体となって韓国内の制度的な手続きの扉をたたき、その過程を韓国の市民社会が支援したという点だ。2019年には103人の被害者が(1)真相を調査し事実を認めること(2)公式謝罪(3)被害回復のための措置を要求し、大統領府に請願書を提出した。2020年には国家賠償訴訟を起こし、2022年には真実・和解のための過去事整理委員会(真和委)に真実究明申請書を提出した。

 韓国政府でも検討が行われた。あまり知られていないが、2018年10月に大統領直属の政策企画委員会は「ベトナム戦争時期の韓国軍による民間人被害事件真相調査機関の設置のための提案」という文書を作成し、大統領府に提出している。「韓国政府は20年近く何の措置も取っていないという批判は避けられない」、「政府レベルの真相調査そのものがないということは今後、政府がこれに関する立場や政策を検討するうえで大きな問題」との問題意識から出発し、国防部の傘下に真相調査機関を設置し、運用していこうという提案を含んでいた。

 しかし国防部、外交部などの関連省庁の意見確認を経た大統領府は、議論をさらに進展させることはなかった。外交部の反対が強かったと伝えられたが、大統領府にも強い意志はなかった。そして2019年9月、被害者の請願に対する国防部の回答というかたちで文在寅(ムン・ジェイン)政権の最終的な立場が発表された。「関連資料を確認してみたものの、請願人が主張する民間人虐殺は確認されなかった。真相調査も実施できない」

 歴史問題に積極的な文在寅政権だったが、ベトナム戦争民間人虐殺に関しては世論化から20年を経て「虐殺はなく、調査もない」という公式の立場を示したわけだ。

 第3の局面はグエン・ティ・タンさんの勝訴判決とともに開かれた。国防部は虐殺は確認できないと言ったが、裁判所は虐殺は存在すると判断した。この判決に対する韓国政府の見解はどのようなものか。無視することも、避けて通ることもできない局面だ。(2に続く)

//ハンギョレ新聞社

イム・ジェソン|弁護士(ベトナム戦争民間人虐殺国家賠償訴訟被害者代理人) (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1079463.html韓国語原文入力:2023-02-13 14:29
訳D.K

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