原文入力:2010-02-28午後09:35:00(1555字)
‘陜川(ハプチョン)平和の家’ 1日 開院
チェ・サンウォン記者
←シム・ジンテ韓国原爆被害者協会陜川支部長が1日にドアをあける陜川平和の家を見回している。個人住宅を改造したこちらは部屋3間,居間,台所などを備え。原爆2世患友たちの憩いの場の役割をすることになる。
被爆後遺症 苦痛 社会的公論化
故キム・ヒョニュル患友会代表 逝去 5年
"人間らしく生きる世の中, 求心点になれば"
"一生を病気と障害で死より重い苦痛の暮らしを送っている原爆2世患友たちも今は痛ければ痛いと言いたいです。"
2003年記者懇談会でキム・ヒョニュル(写真)韓国原爆2世患友会代表は "最小限の人間らしいことも維持できないまま生きていく原爆2世患友たちをこのまま放置するのは国家権力の暴力" として、言論の関心と助けを訴えた。彼は "原爆2世患友たちの人権と尊厳性を取り戻すために" 2002年韓国原爆2世患友会を作り、翌年に自身が原爆2世患友という事実を初めて私たちの社会に公開した。彼は原爆2世患友とその家族が被っている精神的・肉体的苦痛は個人の問題ではなく、国家と社会の問題という点を認識させようと努力し、原爆2世患友たちがゆっくり休むことのできる空間を確保するために飛び回った。
被爆後遺症による先天性免疫グロブリン欠乏症で、当時すでに肺機能の70%を失った状態であった彼は2005年5月29日34歳の若さで亡くなった。
彼が去り5年ぶりの1日、慶南,陜川郡,陜川警察署付近丘に原爆2世患友たちの憩いの場である‘陜川平和の家’がドアをあける。
←キム・ヒョニュル韓国原爆2世患友会代表
1945年8月、日本,広島と長崎に原子爆弾がさく烈した時、被爆した人々の子供たちである原爆2世は現在、国内だけで1万人余りがいて、この内、両親から被爆後遺症を受け継き、生まれた時から苦痛を受けている患友は2300人余りに達する。
平和の家は民間救護団体ウイードアジア代表チウォン僧侶(釜山,文殊寺住職)と彼の最上席出身のヘジン僧侶(済州,馬羅島 祇園精舎住職)の後援で建てられた。ヘジン僧侶は 「キム・ヒョニュル代表を通じて原爆2世患友たちの問題に関心を持つことになり、一日もはやくこれらの憩いの場を用意しようとしたが、やっと第一歩を踏み出すことができた」として「たとえ小さくみすぼらしい空間でも、原爆2世患友たちに少しでも助けとなり、これらの困難を私たちの社会に知らせる求心点になることを期待する」と話した。
原爆2世患友たちの初めての憩いの場が慶南,陜川郡にできたことは全体韓国人原爆被害者の60%ほどが陜川出身であるためだ。シム・ジンテ韓国原爆被害者協会陜川支部長は 「日帝強制占領期間の時、強制徴用などで日本に渡った韓国人の中で陜川の人々は大多数が広島で暮らしていたので陜川出身の被害が特に激しかった」として 「それで陜川を‘韓国の広島’とまで表現する」と話した。
"人間らしく生きたいという普通の人の単純な希望が、私にはあまりに荷が重いことになりました。それでも人間らしく生きたいという小さな希望を必ず守りたいです。それで普通の人たちが抱く夢をかなえたいのです。」とキム代表が韓国原爆2世患友会ホームページ(cafe.daum.net/KABV2PO)に残した希望だ。
陜川/文・写真 チェ・サンウォン記者 csw@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/407270.html 訳J.S