「韓国メディアの記事に付けられる『なぜ出ていかず韓国政府に負担をかけるのか』のようなコメントには傷つけられます。私も韓国に帰ろうかと思いましたが、妻の祖国であり私には第2の故郷であるここを離れられません」
今月1日と14日の2回にわたり、本紙の電話インタビューに応じたYさん(47)は、ウクライナは「第2の故郷」だと強調した。彼はウクライナ現地で医学部を卒業し、10年以上にわたり現地で病院を運営し、家庭を持っている。
ウクライナの首都キエフ(現地読みキーウ)を中心にロシアの空襲が続くなか、Yさんのように現地を離れられない韓国人は今もいる。ウクライナ人と家庭を持ち生活基盤が現地にある人が多いという。これらの人々は、避難民を助け、戦争の不安を打ち破っている。
16日の外交部の説明によると、韓国時間11日夜10時時点で、ウクライナの現地に残っている韓国人は28人。これらの人々のうち残留を希望する19人は、ほとんどが現地に家庭を持つ人だと推定される。Yさんは「宣教師や留学生など一時的にここに来た人は全員、近隣国との国境地域や韓国に帰ったと認識している」とし、「今も残っている韓国人は3~4家庭程度だと認識しており、ほとんどはこっちで結婚し家庭を持ち、生活基盤がこっちにあって離れるのが難しい人々だ。連絡を取っている韓国人の一人については、居住地で献身的に救護活動を助けていると聞いている」と述べた。
Yさんにとって、現在住んでいるウクライナ東部のドニプロは故郷も同然だ。大学に通い、病院を整え、ウクライナ人の妻と結婚し、義父や義母など家族ができた。11歳と8歳になる子どもたちも、すくすく育っている。
彼は「私も戦争直前、両親の世話をするために韓国に行こうか非常に悩んだ。しかし、ここは子どもたちの故郷であり、私には第2の故郷であるだけに、愛情のある場所」だとし、「一人だったら戦争が起きればすぐに韓国に帰ったが、ウクライナの家族を一緒に韓国に連れていけるという確信がなく、ここに残るしかなかった」と述べた。
現地の状況が日々悪化し、Yさんは避難民を助けることに力を注いでいる。1日に連絡を取った際には、ドニプロは比較的空襲が少なかったが、現在は1日に数回、空襲警報や砲撃音が聞こえてくるという。にもかかわらず、ハリコフ(現地読みハルキウ)などから近隣国に避難しようとする避難民たちは、ここを中間地点にして押し寄せている。Yさんは「今日(14日)もハリコフなどにある保育園から子どもたち150人が避難に来るということで、教会3カ所に寝床と食べ物を準備した。これらの人々に配る食べ物と衣服を探すため、朝8時から通行禁止時刻の夕方8時まで、各所を歩き回っている」と述べた。
彼は2014年の「ドンバス内戦」の際にも、ルガンスク(現地読みルハンシク)地域からの避難民に薬を配り、簡単な治療をするボランティア活動を行った。ロシアの侵攻の直前には、状況が劣悪な現地の住民たちに眼鏡と医薬品を配るなど、2週に1回、自費で180~200万ウォン(約17万5000円~19万5000円)を投入し医療奉仕を行った。Yさんは「最近1~2カ月目になったばかりの乳児を連れてくる避難民をみると、思わず涙が出てくる。2014年の内戦中に2人目の子どもが生まれ、オムツもなく離乳食も探すことが難しかった過去を思いだすからだ。困難に直面した人々をただ見過ごすことはできない」と述べた。朝鮮戦争を経験した両親も、Yさんに「私たちもかつては国際社会の助けを借りたのだから、あなたも最大限、人々を助けなさい」と励ましたという。
彼は、家の中に閉じ込められ不安を感じている子どもたちをみて、心を痛めている。Yさんは「ウクライナに残っている韓国人は、やむを得ずここに残っている人がほとんどだ」とし、「山火事やロシアへの経済制裁のため、韓国におられる方々も非常に大変だと認識している。しかし、戦争が早く終わり、こちらにいる韓国人と住民たちが安全になれるよう、関心を持ってほしい」と述べた。
コ・ビョンチャン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )