5・18民主化運動の歪曲は、当時から新軍部により緻密になされた。5・18を暴動に仕立てるためにねつ造された代表的な事例が光州(クァンジュ)刑務所襲撃事件だ。
新軍部は、5月21~23日に4~7回にわたり市民軍が光州刑務所(北区角化洞)を襲撃したとねつ造した。刑務所襲撃説の当事者に名指しされた5・18有功者は、ユ・ヨンソン氏(当時27歳)だ。ユ氏は1980年5月21日、全羅南道庁前で戒厳軍の集団発砲で頭部に銃傷を負い、光州キリスト病院に搬送された。同日キリスト病院が作成した入院者名簿にはユ氏の氏名があり、カルテには半昏睡(Semi-coma)状態と記されている。ユ氏の投薬記録が5月23日まであることから、ユ氏はこの日に死亡したと推定される。
だが、5・18直後に全南合同捜査団が作成した「光州刑務所襲撃企図事件」文書には、ユ氏が当時光州刑務所に国家保安法違反の罪で収監されていた兄を脱獄させるため、刑務所を襲撃し死亡したと記されている。ユ氏の検視調書には、5月27日戒厳軍の鎮圧作戦時にYWCA付近で死亡したと記されている。
ねつ造された刑務所襲撃説は、1985年に新軍部により5・18歪曲のために組織された「光州事態真相究明委員会」(80委員会)と1988年の国会対策特別委員会(511研究委員会)を経て、あたかも事実であるかのように固定化される。
80委員会は、1985年に大学生が5・18の真相究明を要求し、ソウルの米国文化院を占拠する事件が発生すると、これに対応し国家安全企画部の主管で作られた汎政府対策機関だ。
511研究委員会は、1988年の与小野大(国会で与党の議席数が野党より少ないこと)政局で光州聴聞会が推進されると、その年の5月11日にそれに備えるために構成された組織だ。2017年に国防部5・18特別調査委員会が確保した「511研究委員会関連資料」によれば、当時イ・ヒソン戒厳司令官、チョン・ホヨン特戦司令官らは事前に予想質問と返答を議論した。
「デモ隊による刑務所攻撃はねつ造されたものではないか」という予想質問には「作戦日誌などの関連資料によれば、6回にわたり攻撃があり、戒厳軍は光州刑務所を防御し事態の悪化を防いだ」と答えるようまとめられている。
刑務所襲撃説の根拠になる第3空輸旅団の戦闘詳報(作戦終了後に功績を報告する文書)は、1985年に新たに作成されるなど、返答の根拠資料はすでに80委員会でねつ造した状態だった。511委員会を経た刑務所襲撃事件ねつ造資料は、現在までチ・マンウォン氏、キム・テリョン(ペンネーム)などの5・18歪曲の根拠に使われている。