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サムスン、海外工場初の民主労組をわずか40日で破壊

登録:2019-06-24 23:40 修正:2019-06-25 10:38
グローバル・サムスン持続不可能報告書(3)無労組 
 
インドネシアのサムスン電子元労組委員長、ズルハーマン 
脅迫・暴行・買収・分裂工作・雇われ暴力団の暴行 
グローバル標準に合わないグローバル企業の“悪習”
インドネシア・サムスン電子のズルハーマン元労組委員長が5月13日、金属労働者連盟ブカシ支部事務室でハンギョレのインタビューに応じている。労組破壊事件から6年が過ぎたが、彼は今もサムスンの報復を恐れていた=ブカシ/キム・トソン<ハンギョレTV>PD//ハンギョレ新聞社

 グローバル超一流企業として君臨するサムスン電子は、今や韓国だけの企業ではない。超国籍企業サムスン電子は、世界の人々にどんな姿に映っているのだろうか。サムスン電子で働く労働者は、サムスンに対してどう思っているのだろうか。特にサムスン電子の主要生産基地に浮上したアジア地域の労働者の暮らしと労働の現実はどうなっているのだろうか。この質問の答えを得るために、ハンギョレはベトナム、インド、インドネシアのアジア3カ国9都市を訪ねた。2万キロ余り、地球半周分を巡って136人のサムスン電子労働者に直接会って質問調査した。国際労働団体がサムスン電子の労働条件に関する報告書を発刊したことはあるが、報道機関としては韓国内外をあわせて最初の試みだ。10人の労働者に深層インタビューし、20人余りの国際経営・労働専門家にも会った。70日にわたるグローバル・サムスン追跡記は、私たちが漠然とは察しながらも、しっかり見ようとしなかった不都合な真実を暴く。真実に向き合うことは、そのときは苦痛かもしれないが、グローバル企業としてサムスンがブランド価値を高めるためには避けられない過程だと判断する。5回に分けてグローバル超一流企業サムスン電子の持続可能性を尋ねる。

グローバル・サムスン持続不可能報告書//ハンギョレ新聞社

 “無労組”は、世界中のサムスン工場を一つにまとめるキーワードだ。創業者の故イ・ビョンチョル会長が「私の目に土が入ろうとも労組は許さない」として無労組原則を明らかにして以来、3代にかけて守っている経営方針だ。しかし、グローバル基準に合わないこの時代錯誤的な経営方針は、すでに世界的企業に成長したサムスンの現在と絶えず不協和音を起こしている。世界中のサムスン工場の中で、最初に合法的な民主労組を結成したインドネシアの事例を通じて、その実態を伝える。

 インドネシア・チカランのサムスン電子工場のエンジニアだったズルハーマン(39)は、2012年10月21日を今も鮮明に覚えていた。この日は、サムスン電子の海外生産法人に初めて合法的な民主労組が設立された日だ。「労組設立証を会社に直接手渡しました。管理者の表情がひどくゆがみました。大いに驚いたようでした」。その時はまだ、ズルハーマンは彼と同僚を襲う試練をまったく予想できなかった。

 サムスンは、韓国国内で行ったのと同じく、脅迫、懐柔、尾行、暴行で対応した。組合員は、工場内では監視され、工場外では尾行された。「非正規職に対する差別なのい工場を作ろう」という目標で結成された労組は、長くは続かなかった。サムスンの相次ぐ脅迫に、不安に震えた組合員は一人二人と会社を去って行った。サムスンが労組を完全に破壊するまでにかかった時間は、わずか40日だった。

 インドネシア金属労働者連盟(FSPMI)所属サムスン電子労組の委員長だったズルハーマンは、ハンギョレのインタビュー要請を何度も断った。彼は「韓国のマスコミに良くない記憶を話したくない」と言い訳したが、拒絶の本当の理由はインタビューが終わる頃になって聞くことができた。

 紆余曲折の末にインタビューが実現したのは、現地の市民団体と労組の粘り強い説得のおかげだった。彼が外国の報道機関のインタビューに応じたのは今回が初めてだ。サムスンのチカラン工場労組破壊は、国際労働団体の報告書に事例として簡略に言及されていた。5月13日と17日、金属労働者連盟ブカシ支部の事務所と近隣のあるモスクで彼に会い、長時間隠されていた労組破壊の顛末を聞いた。

正規職-契約職-派遣職 “差別のピラミッド”

 ズルハーマンは、1999年に入社して生産ラインのエンジニアとして仕事をした。正規職であり主要な人材だった。生産職労働者の行動を分析し、生産効率を上げるための戦略を立てる業務もした。ズルハーマンがサムスンに入社した理由は、家族のためにお金をたくさん稼ぎたかったからだ。彼にとってサムスンの第一印象は、「安全な労働環境と高い賃金をくれる最高のグローバル企業」「長く働きたい一生の職場」だった。

 幻想は時間とともにどんどん壊れていった。奴隷のように酷使される自身と同僚の現実を気づき始め、彼はいわゆる“問題社員”(MJ、サムスンが労組結成の可能性がある社員を指す表現)になっていった。一緒に働いた派遣職(アウトソーシング)の同僚は、一日で突然切り捨てられるのが常であり、目標生産量を満たせずに毎日超過勤務をしても手当は支給されなかった。「親しい同僚に派遣職が大勢いました。派遣職の同僚たちと多くの話を交わし、労組が必要だと考えました。彼らは正規職と同じように働いているのに、賃金や給食補助で差別を受けていました。熱心に働いても、突然クビになるケースも多くありました」

“ハーモニー”という名の御用労組

 当時、チカラン工場の全労働者2800人余りのうち、契約職と派遣職が約800人ずついた。世界人口4位のインドネシアの内需用家電製品を生産するこの工場は、事実上非正規職労働者の血と汗で成り立っていた。だがサムスンは、一つのラインで働く労働者を正規職-契約職-派遣職に分けて、賃金と処遇で差別した。物量が多い7~12月の繁忙期に生産人材を集中的に活用するための労働柔軟化戦略だった。管理者に対し差別問題で抗議したが「お前には関係ない」という叱責が返ってきた。ますます労組が必要だと考えるようになった。インドネシアの労働法上、派遣労働者を正規職と共に生産ラインに投じることは違法だ。

 労組の結成は秘密裏に進められた。ズルハーマンは、金属労働者連盟を訪ね、サムスン工場の状況を説明し労組を作りたいという意向を明らかにした。当時、金属労働者連盟は非正規職問題に声を上げ、周辺事業場の労組結成を助けていた。2カ月後、サムスンの正規職10人と派遣職300人が労組の設立に賛同した。労働部に対し正式登録の手続きを踏んだ後、合法労組になった。ズルハーマンは「非正規職も堂々と声を上げられる工場を作ろうということが最大の目標だった」と話した。

 その時、会社には“ハーモニー”という労組があったが、御用労組なので労働者の声を代弁することはできなかった。サムスンの管理者は「会社にはハーモニーが存在するので、他の労組は必要ない」という論理を労働者に教育した。ハンギョレが会ったハーモニーの元幹部でさえ、ハーモニーを「非正規職を増やし、超過勤務時間を拡大するなど、会社側の要求に同意するために存在する団体」と表現した。

インドネシアのサムスン電子の元労組員たちが5月13日、金属労働者連盟ブカシ支部の事務室で、2012年末に起きたサムスンの労組破壊の顛末を証言している=ブカシ/キム・トソン<ハンギョレTV>ディレクター//ハンギョレ新聞社

脅迫、尾行、監視、分裂工作

 労組結成の事実を知ったサムスンの対応は素早かった。ズルハーマンと組合員を次々と呼びだし、懐柔工作に入った。「『正規職なのにどうして労組を作ったのか』『会社の(無労組)方針を知らないのか』『いったい何が望みなのか』と言って、労組からの脱退を強要しました。会社の弁護士まで出てきて、組合員を小さな部屋に閉じ込めて『不利益を受けてもいいのか』と脅迫しました。ある程度は予想していたことでした。初めはこう言っていても、時間が過ぎれば労組を認めるだろうと思っていました」。インドネシアは、国際労働機関(ILO)の核心協約を批准した国で、一つの事業場にも多様な利害関係を持つ複数労組が共存していた。労働法上、職員の50%以上が同意すれば交渉団体を構成できるため、ズルハーマンの労組は大きな影響力を行使することはできずにいた。

 「サムスンでも労組はできる」という考えは、純真な錯覚だった。労組瓦解の速度が進まないと、サムスンはさらに露骨に組合員を弾圧した。「工場内で一挙手一投足を監視されました。管理者が仕事を疎かにしていないか、ミスはないかを監視しました。物量をさらに増やして、トイレにも行けないようにしました。『カネが目当てで労組を作った』『労組のために工場が門を閉めることになりかねない』といううわさが広がり、非組合員が組合員をののしり始めました。工場内に駐車していた私のバイクのサドルを誰かが刃物で切ったこともありました。朝起きて工場に出て行くのがとても怖くなりました」

雇われ暴力団に頭を割られた組合員

 工場の外でも圧迫は続いた。サムスンの管理者が、中核の組合員の自宅周辺を監視するやり方だった。「ある日は、一人の組合員が具合が悪く有給休暇を使ったが、管理者が自宅に訪ねてきて、本当に具合が悪いか確認して行ったりもしました。息子の卒業式に参加した組合員に、家族と一緒に撮った写真を提出させたりもしました。非組合員にはまったくしなかったことです。私だけでなく家族全員が監視されている感じでした」。労組活動に対する希望は恐怖に変わっていた。

 威嚇と暴行の強度はさらに強まった。労組破壊に抗議するため11月19日にチカラン工場前で開かれた集会で、組合員は集会を妨害するために動員された雇われ暴力団から威嚇と暴行を受けた。集会に参加した組合員の話を総合すれば、集会開始の数時間も前から、雇われ暴力団と警察官数百人が工場周辺を取り囲んでいた。衝突が発生して、頭が割れ手が裂ける傷を負った集会参加者もいた。警察が連れてきた犬に咬まれた組合員もいるという。ズルハーマンは「労組が結成された後、毎日組合員たちは不安におびえていた」と話した。インドネシアで労組結成とその活動を妨害する行為は明白な不法行為だ。

サムスンの労組破壊に抗議するために、2012年11月インドネシア・チカラン工場前で大規模デモが行われた。雇われ暴力団との衝突で、頭が割れる傷を負った集会参加者もいた=インドネシア金属労働者連盟提供//ハンギョレ新聞社

派遣職から始まった買収作戦

 サムスンは、弱い部分から攻略に出た。雇用が不安定な派遣労働者を懐柔する方法だった。管理者たちは、派遣労働者に「直ちに契約を解約してもいいんだぞ」と脅迫し「退職金を受け取って辞職すること」を提案した。インドネシアの労働法上、派遣職は契約が解約される時に元請から退職金を受け取ることはできない。「派遣労働者は困り果てました。『どうせ切られるなら退職金でも受け取って出て行きたい』という同僚もいました。派遣職組合員が、一人二人と会社を去って行き、労組活動が難しくなりました。工場の人々全体が敵のように見えました。最後まで残っていた私と幹部も、それ以上は持ちこたえられませんでした」。

 ズルハーマンは12月初めに退職願いを出した。海外工場初の合法民主労組が完全になくなった瞬間だ。労組が作られてからわずか40日後のことだった。彼は「こんなに早く労組が破壊されて、会社を去ることになるとは思わなかった」と話した。多くの組合員は、サムスンを退職した後に行方をくらました。彼らにとってサムスン労組での活動履歴は、就職を遮る汚点であり、一生消えない心の傷として残った。労組設立内紛を体験した後、チカラン工場の労務チームの主要幹部が、韓国本社に召喚されたと伝えられた。ズルハーマンは「労組設立を阻めなかったための問責の召喚」と解釈した。

インドネシア・サムスン電子のズルハーマン元労組委員長が5月17日、ブカシのあるモスクでハンギョレのインタビューに応じている=ブカシ/オク・キウォン記者//ハンギョレ新聞社

「サムスンは恐ろしい企業です」

 ズルハーマンはサムスンを辞めた後、ブカシ地域で小さな商店を営んでいる。彼は「労組が瓦解した後、再び他の工場で働きたいとは思わなかったし、今後も働くことはできないだろう」と話した。「サムスンは恐ろしい企業です。多くの組合員が今でもサムスンを恐れています。サムスンが再び報復するかもしれないと言って、韓国の報道機関のインタビューは受けないように薦めた同僚もいました」。それが、彼がインタビューを断った本当の理由だ。店をあまりに長く空けてしまったと言って、足を速めるズルハーマンに「また戻ったとしたら労組を作るつもりがあるか」と最後の質問を投げた。彼は躊躇なく「またあの時に戻っても労組を作ると思う。労働者を困らせるサムスンには、労組が絶対に必要だ」と答えた。

 ズルハーマンと別れた帰り道、高速道路の中央分離帯にそびえるギャラクシーS10の広告看板が明るく光っていた。サムスン電子は、高い市場占有率でインドネシアで2年連続(2017~2018年)ブランド評価1位を獲得した最高企業だ。合法労組を蹂躙し、非正規職を絞り取って立てられた栄光の塔は、どれほど光り続けることができるだろうか。

 サムスン電子本社は、インドネシアでの労組瓦解に対する質問に対し「相互信頼を基に共生する労使関係を維持するために、現地法が定める役職員の結社の自由を尊重している」と答えた。

ブカシ/オク・キウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/899116.html韓国語原文入力:2019-06-24 20:20
訳J.S

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