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金大中元大統領の「民主化の同志」だった息子のキム・ホンイル氏が永眠

登録:2019-04-22 09:30 修正:2019-04-22 10:24
「金大中内乱陰謀事件」の拷問で生涯後遺症に苦しむ
1997年、金大中は四度目の挑戦である15代大統領選挙を控えて大統領選挙資金の暴露、北風など、試練に対抗しなければならなかった。 写真は1月5日72歳の誕生日を迎え、ソウル西橋洞の聖堂で夫人のイ・ヒホ氏と息子のキム・ホンイル氏(前列左)とミサを捧げている姿=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 金大中(キム・デジュン)元大統領の長男であるキム・ホンイル元民主党議員が、20日午後5時死去した。享年71歳。キム元議員は、1980年の「金大中内乱陰謀事件」当時、公安当局からひどい拷問を受け、生涯後遺症に苦しんだ。

 消防当局によると、キム元議員は20日午後4時頃、ソウル麻浦区(マポグ)西橋洞(ソギョドン)の自宅で倒れ、新村(シンチョン)の延世大学セブランス病院に移送されたが、午後5時4分に死亡判定を受けた。キム元議員は共に民主党の前身である新政治国民会議と新千年民主党所属で第15、16、17代国会議員を務めた。

 キム元議員は、金大中元大統領の息子であり、民主化の同志だった。朴正煕(パク・チョンヒ)政権の独裁に対抗して1974年に全国民主青年学生総連盟(民青学連)事件の背後勢力とみなされ、苦難を負った。1980年の「金大中内乱陰謀事件」当時は、公安当局からひどい拷問を受けた。金元大統領の自叙伝によると、当時、拷問捜査官らはキム元議員を「アカの子ども」と呼び、「お前が金大中の息子か。お前は絶対にここから生きて出られない」とし、ひどい殴打を浴びせた。キム元議員は拷問の最中に虚偽の自白をすることを恐れ、自ら命を絶とうとして首にけがをした。この時の拷問の後遺症は一生キム元議員を苦しめ、結局パーキンソン病につながった。

 2006年、アン・サンテ元ナラ総合金融社長から人事請託の見返りに1億5000万ウォンを受け取った容疑で有罪確定判決を受け、議員職を失った。パク・チウォン民主平和党議員は20日、自分のフェイスブックに「(当時、金大中)大統領は『パク室長、私はホンイルが有罪判決を受けて議員職を失っても、現金3千万ウォンを持って歩く姿を見られたら恨みはないよ』と私におっしゃった」とし、「当時、キム議員は3千万ウォンの紙袋どころか一人で立ち上がることも、歩くこともできなかった」と書いた。

 2009年、金元大統領死去の時はほとんど言葉を発することができないほど体調が良くなかった。しかし、臨終の瞬間に「アボジ(お父さん)」と3文字だけをしゃべったという。当時、別人のように痩せた姿で遺体安置所に姿を見せ、周囲を悲しませた。

 与野党の政権は一様に故人を追悼した。共に民主党のホン・イクピョ首席代弁人は論評で「キム元議員は長い間、韓国社会の民主主義と朝鮮半島の平和のために献身された」とし、「故人の冥福を祈る」と明らかにした。自由韓国党のミン・ギョンウク代弁人も口頭論評で「キム元議員の国家に対する愛国心と生前の議政活動について知っている多くの国民が非常に惜しんでいると思う」とし、「謹んで故人の冥福を祈る」と述べた。正しい未来党のイ・ジョンチョル代弁人は「キム元議員は大韓民国の民主主義の巨木である金大中元大統領とともに民主化の逆境と苦難を共にした方」とし、「時代と歴史のための金元大統領の偉大な旅を共にした息子でありパートナーとして、キム元議員を欠かせない存在だったことは自明」と哀悼の意を表した。

 チョ・グク大統領府民政首席はフェイスブックに「われわれの世代が経験した『野蛮の時代』を再び振り返る。時代は変化したが、その変化を作った人たちに残された傷跡は深い」とし、「独裁を維持するために非道な犯罪を犯した者、その独裁を擁護・称賛した者たちの顔と名前を思い浮かべる。謹んで故人の永眠と冥福を祈る」と書いた。

 故人は「金大中内乱陰謀操作事件」で激しい拷問を受け、第3次5・18民主化運動関連者補償審議委員会で5・18関係者に認定された。

 葬儀は4日間家族葬で行われる。遺族は妻のユン・ヘラ氏、娘のジヨン・ジョンファ・ファヨン氏、娘の夫のチャン・サンヒョン、チュ・ソンホン氏。葬儀は延世大学セブランス病院、出棺は23日午前7時、埋葬地は国立5・18民主墓地となる。

キム・ウォンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/assembly/890831.html韓国語原文入力:2019-04-21 20:19
訳M.C