このコラムで、白楽晴(ペク・ナクチョン)に関する話を並べ立てれば「似合わないのに」と言う読者が少なくないと思う。ソウル大名誉教授、文学批評家、季刊『チャンビ』の編集者として、学芸分野で彼に肩を並べる人を探すのが難しいのみならず、この前までは南北民間交流委員会委員長をひきうけて、難しい峠を立派に越えた実践家だ。今私たちの周辺でヘルムトゥ・シュミット級の「マホ」を選べと言うなら、私は白楽晴を第一候補に選ぶ。ここで話す白楽晴は、今の彼でなく、あくまでも1960年代初めの20代「ハーバードボーイ」だ。 白楽晴は私の「三十而立」に決定的な影響を与えた人で、力が足りない私のような人とつきあった結果、しなくても良い苦労を買って、不運に出会ってしまったのだ。
とにかく『朝鮮日報』社会部の新人記者の私は、1961-62年龍山(ヨンサン)、南大門(ナムデムン)、中部(チュンブ)、城東(ソンドン)など4ヶ所の警察署を回る警察記者だったが、中部警察署になる時、暇が出来次第、ペク病院のすぐそばにある彼の家を訪ねた。私たちの話題は単純に文学に留まらないで、政治,国際問題,歴史,哲学などに限りなく広がった。しばらくして、彼が米国で発刊される進歩的性格の季刊誌何種類を見せて、こういう形態のを出したいといった時,私は即席で良いアイディアだと相槌を打った。だが季刊誌を作る仕事がどのくらい血のにじむ努力を要するのかということには考えが及ばなかった。「マホ」と「マホではない者」の差だ。後ほど、彼が季刊誌『創作と批評』を創刊するのに、私が若干のお金を出した記憶はあるが、原稿委託、校正、印刷所出入りなどすべてのことを彼が一人でしたも同然だ。周辺で時々製作を助けた友人は、キム・サンギとイ・ジョング(『朝鮮日報』を解雇された記者、前貿易協会常務理事)だ。
それから少し後の日、 65年5月小説『糞地』が朴正煕政権の神経を逆なでして、作家南廷賢(ナム・ジョンヒョン)が中央情報部に拘束される事件が起こった。小説の題名が『糞地』だったからか、文壇主流の保守・右翼の雰囲気のためなのかは分からないが、創作活動に鎖をはめようとする政治権力の越権行為に、表立って抗議する知識人はいなかった。 そうした中で、白楽晴(ペク・ナクチョン)が表現の自由と芸術活動の自由が侵害される現実をはなはだ憂慮する文を『朝鮮日報』に書いた。文化部長ナム・ジェヒが委託をしたことなのに、私が白楽晴を推薦したのかは確実でないが、ナム・ジェヒとペク・ナクチョン,私がこのように3人で酒の席を1、2度持ったことだけは明らかだ。
寄稿が載せられた翌日、白楽晴の母が電話をかけて差し迫っていた声で、家に来てくれと言った。少し前に息子が中央情報部要員に連行されたので、彼の本棚で誤解を生むほどの本を皆選んでほしいと言った。その時、知識人らがマルクスやその他に社会主義者らの著述を他人の前で読んだり所持することはとても珍しかった。彼の本棚も例外ではなくて、文学・哲学が大部分であり、やっと何冊を選んだ。その中の一つがハウザーの英文版『文学と芸術の社会史』なのに私が上の空で「検閲」すると映った形だ。彼の母は、私に細かく調べてさらに選び出すようにと言って、「娘が『ソーシャル ワーク(Social Work,社会事業)』という本も題名に「社会」という言葉がついているので、おかしな目で見るんだよ」とため息をついた。 中央情報部に引きずられて行った子どもの安全を心配する母の心は終始一貫している。
警察記者がハーバードボーイと肩を並べて通いながらあれこれ高尚な議論をするのを怠けたと話すならば無念だ。世の中をびっくりさせる調査記事を発掘することはできなかったが、中部警察署で出入りをしながら、4段抜きのスクープをした。それは、当時ソウルで一番古くなっていた貫鉄洞(クァンチョルドン)の中華料理店「大観園」の主人の服毒自殺事件だ。ところで、私が足で稼いで掘り出したネタではなく、白楽晴の母親が、ペク病院で聞いた話を私に知らせてくれたおかげだ。警察記者が病院応急室のようなところを熱心に尋ね歩かない格好が痛ましく映ったのかもしれない。『糞地』筆禍事件があってしばらくして、白楽晴は結婚したが、新郎の結納品を担いで行った連中は、詩人シン・ギョンニムと小説家ハン・ナムチョル(1993年死亡),私を含んだ昔からの友人三、四人だ。
※写真説明:小説『糞地』筆禍事件で拘束された作家南廷賢(ナム・ジョンヒョン)氏(写真:左から2番目)は1967年6月28日、ソウル地方裁判所第1審で国家保安法違反執行猶予を宣告されて解放された。
記事原文:https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/289550.html
翻訳:T.M
記事原文掲載日:2008年5月25日