民主憲法獲得国民運動本部常任共同代表、民主社会のための弁護士会(民弁)創立会員、ハンギョレ新聞創刊委員長、国際アムネスティ韓国委員会理事、監査院長、司法制度改革推進委員長… ハン・スンホン弁護士(84・写真)の代表的履歴だ。 韓国民主化運動から抜くことのできない人生の軌跡だ。 しかし、その裏面には1960~80年代の軍部独裁時代に、政治的良心犯とスパイ捏造事件の弁論を一手に引き受けるようにして経た苦難の歳月が幾重にも刻まれている。 5月、民弁とハンギョレが共に誕生30周年を迎えた。 ハン・スンホン弁護士個人にとっても意味深い時期に違いない。 ちょうど最近、ハン弁護士は10年余りの間の講演・対談・インタビューなどから選んでまとめた『法治主義よ、どこへ行かれますか』(サミン)を出版したところだ。
先月29日、ソウルのプレスセンターでハン弁護士にインタビューを行なった。 年を取って“記憶力減退”を心配しているという彼だが、インタビューの間中一寸の乱れもなく、返答は明瞭で、ユーモア感覚も失うことがなかった。
『法治主義よ、どこへ行かれますか』を出版
最近10年余りの講演・対談・インタビューを集め
60年余りの法曹人生、法治主義の本質を“説破”
法曹人倫理は「人権擁護・正義実現」
“外圧”ならぬ前最高裁長官の“内圧”に衝撃
「法治は権力者に対する上向的牽制だ」
-健康はいかがですか?
「80代に入ってからの私の健康は“対外秘”だ。 『お元気ですか?』と挨拶的に聞かれれば『年相応に元気です』と答える。 事実に符合する模範答案だ。 『何か運動をされていますか』と聞かれれば『往年は釈放運動をずいぶんやりましたが…』といった冗談で答えたりする」
-今年は民主社会のための弁護士会(民弁)30周年、ハンギョレ30周年でもある。 感慨が格別だったのではないか。
「民弁とハンギョレ、共に87年6月抗争の喊声と結実から生まれたという共通点が重要だ。 当時、在野勢力の総本山だった民主憲法獲得国民運動本部の活動とハンギョレ新聞の創刊に参加した一人として、感慨が深い。 様々な試練を克服して今日これほどの民主的な世の中を作り出すのに大きな役割を果たしたという意味で、ハンギョレと民弁の足跡は当然高く評価されるべきだ」(ハン弁護士は87年6月抗争当時、国民運動本部の常任共同代表を務めて抗争を導いた。 高校時代の将来の希望は「新聞記者やジャーナリストと呼ばれる言論人」だったという)
-弱冠26だった1960年4・19直後に検事発令を受け、数年後には法務部検察局とソウル地検で“坦々たる大路”を歩み始めた。 ところが突然“花の道”をたたんで1965年に弁護士に転業された。 なぜあえて大変な道を選択されたのか。
「検事よりは平凡な弁護士として自由に生きたかった。 (彼は自叙伝に「性格上、人の罪責を追及するのよりは不当な目に遭っている人を擁護する弁護活動の方が適性に合うと考えた」と明らかにしている) 周囲が引き止めるのを押し切って5年で検事を辞めた。 ところが朴正熙(パク・チョンヒ)独裁にまきこまれた。1965年は韓日(国交正常化のための)会談反対が頂点に達し、軍事独裁が本格化した時期だ。 良心犯が急増した。 初めは何人か弁論して終わると思っていた。しかし弾圧が長期化したために、自分でも予想していなかった“時局事件弁護士”という道を歩くことになった。 私の一身上の不利益を避けるために背を向けたら、後になって良心の呵責に耐えられないだろうと思った」
-時局事件で最初に弁護を引き受けた事件が、1965年の小説家南廷賢(ナム・ジョンヒョン)の短編『糞地』筆禍事件だ。 中央情報部が反米・親北に仕立てた事件だが、負担になりはしなかったか。
「文学作品を容共(共産主義の主張を受け入れたりその政策に同調すること)に仕立てて起訴した異例な事件なので注目された。 作家自身は少なからぬ心身の苦痛を味わったが、私は弁護人なので別に恐れは感じなかった。 8・15解放以後、韓国に進駐した米軍の性的蛮行を問題にした内容だが、『北傀の主張に同調した利敵表現物』だと言って反共法違反で裁判までして国内外に衝撃を与えた。 1審で宣告猶予判決が下されると、一部では無罪判決も同然じゃないかという評価も出てきた。 それでも文人や知識人社会に及ぼした警告と統制効果は相当なものだった」
-これまで東ベルリン事件(1967)、統一革命党事件(1968)、鬱陵島(ウルルンド)スパイ団事件(1974)、民青学連事件(1974)、金大中(キム・デジュン)内乱陰謀事件(1980)、文益煥 (ムン・イクファン)牧師北朝鮮訪問事件(1989)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領弾劾事件(2004)など、歴史的な時局事件に弁護人として参加した。 どれ一つとして軽いものはないけれども、その中でも一番記憶に残る事件を挙げるとすれば?
「すべての事件がみな忘れられないものだが、その中でも1974年4月の大統領緊急措置第4号違反で捕まえた民青学連事件、そしてその背後勢力にでっち上げられた第2次人民革命党事件を忘れることができない。 検察官の求刑通り死刑・無期が量産される状況に対し、私は“正札制判決”と批判した。 人民革命党事件は1975年に最高裁の宣告が出て、18時間後には8人の無実の人の命が死刑執行にあったが、その中には私が弁護した呂正男(ヨ・ジョンナム)氏もいた。 その上、私は彼の刑執行当時、反共法違反筆禍事件で収監中だったからすさまじい話だ。 人民革命党事件は32年ぶりの2007年に再審で無罪判決が下されたが、裁判所の“司法殺人”であることを再確認させただけであって、死んだ命が生き返ってくるわけにはいかないのだから、こんな惨憺たる悲劇がまたどこにあろうか」(ハン弁護士の筆禍事件も昨年再審で42年ぶりに無罪が宣告された)
-マックス・ウェーバーは職業政治家の徳目として信念倫理と責任倫理を強調した。 職業法曹人に要求される倫理があるとしたら?
「“人権擁護”と“正義実現”だ。 判事・検事は国家権力を行使する公職者の身分だから、国家主義ないしは社会統制中心の思考性向があって、政治権力や組織の要求に逆らうことが容易でない。 判事・検事が犯し得る誤謬を果敢に指摘して正すことができるのが在野の法曹人、弁護士だ」
-ヤン・スンテ最高裁長官時代の朴槿恵(パク・クネ)政権との司法取り引き、司法行政権乱用、判事ブラックリスト疑惑など、政法癒着の形態が明らかになり、衝撃を与えている。 どのように見ているか。
「実に驚くべきことだ。 既存の司法権侵害は主に執権勢力ないし行政府が司法権に干渉する“外圧”から始まった。 だが、司法府内部で権力に迎合したり便乗する“内圧”の危険性の方がはるかに深刻だ。 にもかかわらず、ヤン・スンテ前最高裁長官の事態は司法府が執権勢力と積極的に内通して、謀議し取り引きするという能動的野合にまで進んだものであって、決して容認できない。 裁判官の身上を内偵してブラックリストまで作りながら、色分けや差別はなかったと主張しているが、それならそんなリストをなぜ作ったのか。 特別調査団が調査結果を一つ残らず国民に公開し、責任者の然るべき謝罪と法的責任が問われて初めて司法府は生まれ変わることができる。 国民が司法府と裁判を信じなくなる状況を作り出すのは司法府の自害行為だ」
-法は「現存秩序維持」という機能のために相対的に現実の反映が遅れ、保守的だという通念がある。 これは時に国民の法感情と相反することもあり、また敏感な事案では世論裁判をしているという指摘も出ている。
「外圧に歪曲されないで判決するように、ということで裁判官が存在するのだ。 これまでは目に見えない執権勢力の干渉がはるかに大きかった。 過去に国民的疑惑を買った問題の判決を巡って裁判所側は“世論裁判”だと一蹴したが、事実はそれが執権者側との交感を経た事件であったことが今回露わになった。 司法権も国民の監視と批判を受けるべき国家公権力の一部だ。
法が保守的だという通念もそうだ。 一定の規定に縛られるのを保守と表現することもできるだろうが、誤った既得権の偏向を保守と言うならば、これは保守に対する誤解または冒とくだ。 法というものは、制定された瞬間“秩序”になってしまうのだが、どんな人々が立法府(国会)で法を作るかによって法も変わる。 進歩的価値を志向する人々が法を作っていけば今よりはるかに進歩的な法が出てくるだろう。 法の名で統合進歩党を解散するような社会では正しい司法が生まれにくい。 韓国は分断状況のために安保に関する限り過度に一方に偏っていて、その枠組みを抜け出すことが実に難しい。 批判的意見を抑える技術が高度に発達しているとでも言おうか」
-真の法治主義とは何だと考えるか。
「法で治めるからと言って全てが法治主義ではない。 執権者の意思がそのまま法になったり、国民だけに遵法を強要するのは、少なくとも近代以降の法治主義の本質に背馳する。為政者が国民の代議機関で定立した法規範を遵守し、国政を遂行すること、法を下向的遵法要求と支配手段としてではなく権力者に対する上向的牽制手段と見るのが、正しい法治主義の核心だ」