本文に移動

[インタビュー]38年ぶりに日本から韓国に戻ってきた「石ころの歌」

登録:2016-07-22 09:13 修正:2016-07-22 22:17
「ある石ころの叫び」著者のユ・ドンウさん

1978年に労働実態を告発する手記を報告
日本の作曲家、林光氏が歌にし
日韓連帯、進歩運動の舞台で普及

最近、38年ぶりに来韓した歌手の井上茂さん
偶然ユさんに出会い楽譜集を手渡す
「拷問後の隠遁生活で知らなかった」と感懐

先月16日、国会で開かれたキム・グンテ記念治癒センター開所3周年と国連の国際拷問被害者支援の日(6月26日)を記念する行事で出会ったユ・ドンウさん(前列中央)と日本人音楽家の井上茂さん(後列左から3人目)//ハンギョレ新聞社

 1970年代のチョン・テイル氏の「ある青年労働者の生と死」とともに、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新開発独裁における労働の実情を生々しく告発し、80年代に広く読まれた必読書があった。工員出身の労働運動家ユ・ドンウさん(67)の自伝手記「ある石ころの叫び」だ。

 先月16日、国会で開かれたキム・グンテ記念治癒センター開所3周年と国連の国際拷問被害者支援の日(6月26日)を記念する行事で、著者のユさんは偶然出会った日本人音楽家の井上茂さん(67)から思いがけない贈り物をもらった。78年の出版直後、日本の著名な作曲家の故林光氏が、「ある石ころの叫び」を素材にした民衆歌謡「石ころの歌」の楽譜集(日本音楽協議会<日音協>)とCDだった。

 「私の本が日本で知られていたことさえ知りませんでしたが、曲にまでなって歌われているなんて、信じられないほど驚きました。まるで拷問で失った自分の人生を取り戻したようです」

 先週、ハンギョレに事情を伝えてきた彼の電話の声には、悔恨の思いがずっしりと積もっていた。

 「石ころの歌」が38年ぶりに原著者のもとを訪れるまで、歳月の重さほどに多くの曲折があった。

 49年、慶尚北道栄州(ヨンジュ)の貧農の息子に生まれたユさんは、小学校卒業後の68年に上京し、零細繊維メーカーで働きながら自殺を試みるほどの劣悪な労働の現実を告発するため、77年序盤に月刊「対話」に「ある石ころの叫び」の自伝手記を連載した。「チョ・ファスン牧師との縁で都市産業宣教会とクリスチャンアカデミーで労働者の権利と労働運動に目覚めるようになったおかげでした」

 翌年、単行本にされると、絶版となった本は84年以来再版を重ね、本格的な労働者文学の出発を知らせる作品として位置づけられる。

 しかし、筆者のユさんは本が有名になっていることさえ知らないまま、30年近く世間から離れて暮らさねばならなかった。「本を出した後、全国の労働現場を歩き回りながら、労働組合を作らなければならないと講演していたのですが、81年夏に南營洞(ナムヨンドン)対共分室に連れて行かれました」

 第5共和国政権(全斗煥<チョンドゥファン>政権)が「社会主義を建設しようとした」との容疑で労働者や学生24人を拘束した、いわゆる「学林事件」に巻き込まれたのだ。1カ月間、警察病院に3回運ばれるほど激しい拷問を受けた彼は、ずっと西大門刑務所の病舎に収監されるほど健康を害し、1審で唯一執行猶予で釈放された。しかし、出所後、彼の人生は顧問の後遺症のため回復できないほど荒廃した。87年の大統領選挙での九老区庁不正投票箱闘争の時、国民運動本部常任代表として再び獄中生活をした。「時間が経つほど症状がひどくなりました。一人でいると捕まりそうになるので、家を出て数カ月ずつホームレス生活を繰り返し、何度も自殺を試みました。極度の対人忌避症になり、自ら世間から忘れられた人になるしかなかったんです」

 拷問という単語を聞くことすら怖がり、苦痛の中に閉じ込められて過ごしてきたユさんは、26年後に世間に姿を現す。2012年11月の国会「拷問防止および拷問被害者補償・治癒に関する法律案公聴会」で討論者として出席し、拷問被害の経験を公開の場で証言したのだ。「2011年11月にキム・グンテ議長が拷問の後遺症で亡くなったという事実を知り、南營洞対共分室を訪ね、拷問されたその場で初めて話をしました」。その時から周囲の勧めで精神科治療と人権医学研究所のトラウマ治療プログラムに参加した彼は、徐々に日常を取り戻すことができた。2012年6月、学林事件の再審で無罪も確定した。

 先月、ユさんに「石ころの歌」を届けてくれた井上さんは、21日、電子メールのインタビューを通じ、当初から林氏と一緒に曲を作成することになったきっかけも「拷問反対運動」だったと明らかにした。「林さんは作曲、私はフォークソング歌手として、73年の金大中(キムデジュン)拉致事件で始まった日韓連帯運動に参加して知り合った仲ですが、77年の『在日韓国人事業家偽装スパイ事件』で死刑宣告を受けた故姜宇奎(カンウギュ)さんの救命のため、78年に韓国に向かいました。不法拘束と拷問で捏造されたと聞き、姜氏に直接面会しようとしたのです。さいたま市に住んでいた姜氏とは隣人でもありました」

 その頃、民衆歌謡の強いメッセージに惹かれた二人は、日本に帰国後、東京の新宿にある書店で「ある石ころの叫び:サムウォンセーター工場(100%日本資本)労組結成闘争報告集」というユさんの翻訳書を見つけ、一緒に歌を作ることになったと話した。歌詞は闘争報告集の冒頭に掲載された詩人ソル・チャンス氏の詩を翻案した。「林さんは韓国の闘争に対する連帯の意思を盛り込み、韓国的な8分の6(4分の3)拍子をつけた。その頃人気だったラテンアメリカの革命歌も同じ拍子だった。日音協で主催した『第11回働く者の音楽会特別企画:アジアを歌う』で林さんが直接歌って初めて世に披露された」

 楽譜集には「不安定なリズムと軽快なメロディーが、武器もなく闘う韓国の民衆が自らを石ころにたとえて素手で権力に対抗する強い決意を表現している」という説明もある。

 作曲者の林氏は東京芸術大学作曲科を卒業し、日本の革新運動を代表する市民合唱の集まり「うたごえ」とその分派の日音協で活動し、2012年に亡くなる直前に「毎日映画コンクール音楽賞」を受けるほどの音楽家として知られている。

 先月、井上さんが38年ぶりにソウルに来たきっかけも「拷問反対運動」だった。同じ埼玉県に住み20年以上交流してきた在日韓国人の歌手、李政美(イジョンミ)さんの「拷問の被害者の日」祝宴演奏団に同行し、公演の宴会で奇跡的にユさんに出会った。

 結婚適齢期の娘のため離婚しなければならなかったユさんは、仁川(インチョン)で一人暮らしをしながら「石ころたちの人生」を守る活動に力を入れている。「最近のユ・ウソンさんのスパイ捏造事件が示すように、民主主義が滞る時に拷問の亡霊はいつでも復活します」

キム・ギョンエ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-07-22 11:13

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/753466.html 訳Y.B