カン・サンギュン氏(47·写真)は、少し躊躇っている様子だった。彼は1977年3月に「在日同胞実業家スパイ団」事件で死刑判決を受けた故カン・ウギュ氏(2007年死亡)の息子である。彼は「マスコミとのインタビューに応じたのは今回が初めてだ」と慎重に話した。
先月19日、ソウル高裁はこの事件の主犯とされたカン・ウギュ氏に対する再審判決で無罪を宣告した。彼は「今回の判決で、長い間苦労してきた母と姉の心が安らいで欲しい。私もこれまで生きてきて、父は本当に無罪か否か悩んできたので、今回の判決で私の中で引っかかっていた何かが解消された気分」だと述べた。
1977年の在日同胞実業家スパイ団事件
ソウル勤務中の父親が主犯とされ死刑囚に
88年釈放…2007年に拷問の後遺症で死去
50歳の時に末っ子として生まれたサンギュン氏
5歳の頃から「死刑囚の息子」の痛み抱え
先月高裁再審での「無罪」宣告で恨みを晴らした
だとしてもカン氏の心に残っている「闇」が完全に消え去ったわけではない。再審で無罪判決が出たとしても、父の不在と、とんでもない濡れ衣を着せられ彼と家族が耐えなければならなかった苦痛の時間が、帰って来るわけではないからだ。
67年生まれのカン氏は、父親が50歳の時に末っ子として生まれた。父親は済州島(チェジュド)出身で、16歳の時に日本に渡った。以来、20歳の時職場で片方の足を痛め義足をはめて生活していた。彼は「父とはあまりにも年齢が離れた上に、多感な思春期には離れて暮らしていたので、深い話をしたことはあまりない」と話した。
父親は72年、自分と同じ済州島出身の人がソウルに設立したテヨンプラスチックの監査として就職し、帰国した。カン氏5歳の時だった。そして、小学校3年生の77年1月、突然連絡が途絶えた。維新が最後のあがきのため、一晩でスパイ捏造事件を量産していた時期だった。カン・ウギュ氏は釈放後、89年7月に彼の救命活動を行っていた日本人の集いの会報である『救援会ニュースレター』に当時の状況をこのように証言した。 「77年2月、ソウルのアパートで囲碁をしていたら、警察が土足で入って来て南山(ナムサン)の地下取調室に連行していった。 1週間の間過酷な拷問を受けた。叩かれ、足で踏つけられ、寝かせてもらえなかった」。
東京に残された彼に母親カン・ファオク氏(94)は、「父は何も悪いことしていない」と言っただけだった。実際母親もなにがなんだかわからなかったので、ほかになにも言えなかったのだろう。カン氏は、「当時は幼かったので、父に何が起こったのかわからなかった。父のために救命運動をなさる方の活動を見て少しずつ状況を理解したと思う」と話した。長い時間彼にとって父親は消したい存在だった。日本社会で在日として日常的な差別を経験している中で、「死刑囚の息子」というもう一つの烙印が重なったからだ。 17歳の時に付き合っていたガールフレンドは「日本の永住権を得るために、私を騙して付き合っているではないか」(解放前から日本に住んでいた在日とその子孫たちには特別永住権が与えられるので、彼の場合は永住権を必要としない)」と泣きわめいた。高校の時の生活指導教師は日常的に「植民地の人間だった人が…」などという言葉を口にした。彼は「自暴自棄の心情と打算的な考えが私の中にあって、誰にも本音を言えず、ずっと孤立していた。結局誰にも理解してもらえないと思った」と話した。父親の救命運動が本格化し、日本のマスコミが子供のカン氏とインタビューしようと訪ねてきた。彼は「子供は数字が取れるというじゃないか。その絵を取るために来ていた。しかし私はほかの子たちに『私の父が死刑囚」』である事実がばれたらどうしようと思って、とにかく逃げ回った」と話した。 88年ソウルオリンピック特赦として、やっと釈放された父親を迎えに成田空港に向かっている時も、「『記者が来てこの事実が明らかになったら、今後私の人生はどうなるだろう』」ということだけ考えていた」と明かした。
帰ってきた父親は自分が経験したことについてほとんど語らなかった。カン氏もあえて訊かなかった。彼に韓国と韓国政府に対する感情を尋ねると、「父や母は祖国を思う心があっただろうが、私は同胞たちの中で韓国人として暮らしていたわけではないので…」と話した。彼は「韓国には裁判のことで2回行ったが、もしそれがなかったら、訪問しなかっただろう」と明かした。彼はすでに国籍を日本に移した状態だ。
父親はたまに一人で寝ている時、「バカ野郎、バカ野郎」と寝言を言っていた。「誰がバカなのか」と尋ねると、「私がバカ」なのだと答えた。彼は「父は周りの人に迷惑をかけることを嫌っていた。すでに自分のために大きな被害を被った人々に対して生涯心の重荷を背負って生きていたのではないかと思う」と述べた。父親は帰ってきたが、拷問のせいでもはや仕事のできる体ではなかった。その代わりに、母が喫茶店やレストランを経営して家族を支えた。彼は「長い間苦労してきた母が納得できれば、私はそれでいい」と話した。
彼は2007年に病院で臨終直前の父に韓国に対する感情を訊いたことがある。彼は「父は家族愛よりも、祖国愛や友人や周りの人への愛情が大きい人だったではないかと思う」と述べた。抑えた口調で言葉を繋げていた彼の心の中で一瞬説明し切れない怒りが光り、そして消えていった。 「韓国という国は良い国になるでしょうが?」(息子)「そうだね、良い国になるのを見てみたかったな」(父)
韓国語原文入力:2015.01.22 18:56