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脱北韓国軍捕虜守れなかった責任...裁判所「国家賠償せよ」

登録:2015-01-15 23:03 修正:2015-01-16 08:08
朝鮮戦争の時北朝鮮の捕虜になったハン・マンテク氏
2004年脱北したが北朝鮮に強制送還後死亡
裁判所、政府の保護措置不備を指摘
家族の陳情受け付けてからも消極的な対処
「拘禁場所の訪問や連絡なし」
昨年6月、朝鮮戦争の国軍捕虜の脱北2世が韓国国家人権委員会に北朝鮮の人権侵害を告発し脱北国軍捕虜と家族に対する処遇改善を促す陳情書を提出している。連合ニュース

 国軍捕虜帰還のための義務を果たさなかった責任を国に問う初めての判決が出た。ソウル中央地裁民事47部(裁判長ホン・ドンギ)は15日、2004年に脱北したが強制送還された国軍捕虜ハン・マンテク氏の遺族が国を相手に起こした損害賠償訴訟で、1億ウォン(約1100万円)を支給させる判決を下した。裁判所は「公務員がハン氏の国内送還の過程で注意義務を怠った不法行為について遺族に精神的損害を賠償しなければならない」とした。

 ハン氏は朝鮮戦争中の1952年7月に20歳で国軍に入隊した。武功勲章をもらったこともあったが、休戦直前の翌年6月、江原道錦花(クムファ)地区での戦闘で行方不明になった。戦死したと思った家族は国立顕忠院に位牌を祀り、祭事を行ってきた。

 しかし、ハン氏は北朝鮮軍の捕虜とされた後、咸鏡北道茂山(ムサン)で家庭をもち暮らしていた。彼は2004年11月、中国にいる嫁を通じて韓国の兄弟たちに手紙を送った。家族は政府に送還を助けてほしいと要請した。 2004年12月、国防部長官と外交部長官宛に「朝鮮戦争当時、戦死処理されたハン氏が北朝鮮で生きているという事実を確認し、近いうちに中国で家族と再会する予定であり、韓国への帰還意思も確認したので、事前措置に万全を期していただきたい」との陳情書を送ったのだ。

 ハン氏と家族は中国の知人を介して吉林省延吉(ヤンジー)で落ち合うことにした。ハン氏はその年の12月27日の夜、朝中国境の豆満江を渡って延吉に到着し電話で脱北成功を伝えた。しかし、翌日早朝中国公安に逮捕された。

 家族は仁川空港で逮捕事実を聞いた。中国に到着するやいなや再び国防部長官と外交部長官に「ハン氏が延吉市公安局に捕えられており、北朝鮮に送還されると命を失う可能性があるので、助けていただきたい」という内容の陳情書を送った。駐中韓国大使館のイ領事にも電話し逮捕事実と拘禁場所、中国公安担当者の連絡先を知らせて助けを求めた。しかし、イ領事はハン氏を訪ねず、中国公安にも連絡しなかった。

 イ領事は翌年の1月26日、ハン氏の家族に「2004年12月30日以前に既に北朝鮮に送還された」と説明した。しかし、ハン氏は翌年2〜3月頃韓国の家族と通話でその年の1月6日送還されたと話していた。北朝鮮に送還されてからは拷問を受け自宅軟禁されたと伝えた。ハン氏はその年の4月再び脱北しようとしたのが見つかり、政治犯収容所に閉じ込められた。ハン氏の妹と甥夫婦は、彼が2009年9月に77歳で死亡した事実を2012年になって知り、国家を相手に訴訟を起こした。

 裁判所は「国が責務を果たさなかった過失で50年以上にわたり念願だったハン氏の帰還と家族との再会が失敗に終わった。国が重大な違法行為を犯した」と述べた。 「国防部は、家族の陳情書を受理してから9日が経ってから外交部に知らせ、外交部は拘禁場所と中国の担当公安機関を知っていたのにもかかわらず、訪問したり連絡もせず強制送還日も間違って伝えた」ということだ。裁判所はまた、両機関が国軍捕虜の保護のため遅滞なく積極的な措置を取るべき義務に違反したと判断した。

 政府は裁判で「国家を相手にした損害賠償請求権は、ハン氏の韓国への送還に失敗した2004年から5年が経過し2009年に消滅した」と主張したが、認めてもらえなかった。裁判所は「家族はハン氏が北朝鮮に生きていると期待し、再送還を計画している途中、2012年死亡の事実を聞いた」とし、「ハン氏の死亡が確認されるまでは、国家を相手に賠償請求をすることができない事情があったと見なければならない」と述べた。

キム・ソンシク記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力: 2015.01.15 21:25

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/673906.html  訳H.J

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