登録 : 2014.10.07 19:39 修正 : 2014.10.08 06:16

慶北大学博物館に展示された新羅石仏の前に立つ加藤九祚先生。彼は「故郷の地を踏めずに70年余りの歳月が流れたが、母親が生まれた私を産湯に入れた洛東江と村の前の飛龍山の姿は一時も忘れたことがない」と話した。//ハンギョレ新聞社

2年前に「朝鮮人」であると告白した加藤九祚氏
ソ連軍捕虜の時に身につけたロシア語で
シベリアと中央アジア研究で屹立

スパイの濡れ衣を恐れソ連抑留後に帰郷を断念
慶北大学講演の後に自作の歌を披露し
「最後の願いを遂げました」

「72年ぶりに帰ってきました」

 今は日本人になった老学者の帰郷の道はあまりに遠かった。 玄海灘さえ渡れば済むことなのに、植民地と分断がもたらした歳月は九十路を越してようやく彼に道を開いた。 その間に朝鮮の少年イ・クジョは日本で“シルクロード研究の神”と呼ばれる92歳の碩学加藤九祚に変わっていた。

 幼年時代を過ごした地は慶尚北道 漆谷(チルゴク)郡 若木(ヤンモク)面 陽地(ヤンジ)村。 戸籍上は既に死亡している。 故国と断絶したまま70年を越す歳月が流れ、韓国語は忘れた。 彼は1942年に日本軍に入隊する直前に立ち寄った故郷を、4か月前に72年ぶりに訪ねた。その2年前、彼は『毎日新聞』とのインタビューで朝鮮出身であることを明らかにし、日本の学界を驚かせた。 記事を見たパク・チョンス慶北大学考古人類学科教授の斡旋により、その後に故国を訪れることができた。甥のイ・ハス氏(84)と感激の対面をした後に訪ねた陽地村の風景は、幼年時代とは天と地ほどに変わっていた。

「でも、洛東江(ナクトンガン)と村の前にある山の飛龍山(ピリョンサン)だけは変わっていませんでした。 それがうれしかったです」

 開天節の3日午後、大邱(テグ)の慶北大学博物館で加藤博士の講演が行われた。「洛東江からアムダリヤ川まで-加藤九祚 不屈の人生と学問」という題の講演会は、パク教授と加藤の本来の家系である廣平李氏の一門が用意した。 二回目の故郷訪問に際して開かれたこの席で、加藤は居住まいを正して波瀾万丈だった自身の学問遍歴をしっかりとした語り口で披瀝した。「常にいかなる状況でも運命を自ら切り開き、他の人々がしないことをしてみようという気持ちで生きてきた」と語りかけた。

「朝鮮半島の文明の乳腺である洛東江を通じて生まれたのだと思います。 後にシルクロードの乳腺であるアムダリヤ川で余生を送ることになったのも、そのような縁のおかげではないかと思います」

 貧困のため松葉をかき集めて燃料として売り小学校に通った彼の人生が風雲に包まれたのは4年生の時だ。

「担任の先生の教卓に“朝鮮独立万歳”と落書きされていました。 主謀者と名指しされ調査を受け、学校が怖くなりました。 ちょうどその頃、日本の山口県で坑木を運んでいた次兄が一緒に仕事をしようと言ってきました」

 日本で兄と共に働き、苦学の末に中学検定試験を終えた。 教員を経て東京の上智大学独文科に進学した彼は、1942年に戦況が急迫すると満州の通化県にある日本軍部隊に入隊する。 その直前に故郷を訪ねた。

「別れの挨拶をして門を出る時、父親の号泣が聞こえました。 それが最後でした。 両親は朝鮮戦争の時に病気で亡くなり、火葬して墓を残さなかったといいます」

 敗戦後はソ連軍の捕虜になった。 シベリアに連れて行かれ50年に帰還するまで鉄道建設などの労役をした。 生き残ることだけで精一杯の時期、大学時代に読みふけった思想家パスカルの“人間は考える葦”という金言を再確認し、時間を見つけては身につけたのがロシア語だった。 抑留から帰ってくる頃にはロシア語の達人になっていた。 帰郷したかったが、ちょうど朝鮮戦争が勃発して連絡が途絶えていたし、ロシア語の実力のせいでスパイの濡れ衣を着せられるという周囲からの憂いもあり、韓国帰国の道をあきらめ日本に帰化する道を選んだ。

「大学を卒業してから出版社で働き、シベリア文化史を研究することになりました。 捕虜の頃に身につけたロシア語がその基盤になりました。 63年に『シベリア史』を出版したところ、国内外で反響があり踏査にまで行くことになりました」

 アジア民族誌、文化史の研究が発展してロシア学界の研究成果まで渉猟した彼は、1910~20年代の日本民俗に精通したロシアの学者ニコライ・ネフスキーの伝記を出すなど、独歩的専門家として聳え立った。 大阪国立民族学博物館教授として在職し続け75歳で定年を迎えたが、その後は中央アジアに関心を向け、ウズベキスタン、アムダリヤ川一帯のガンダーラ仏教寺院跡であるカラテパ発掘に没頭した。 中央アジア仏教遺跡変遷史に関する限り、最高の専門家として足場を固めた彼は、今でも年に3~4か月を発掘現場で過ごしている。 今までに出した著書60冊余りは、シベリア、中央アジア文化史の最も権威ある正典に選ばれている。

「よく動いて、よく食べて飲むこと」が健康の秘訣であると明かす彼は、講演の後に自ら作った「アムダリヤの歌」を力いっぱいに歌った。 慶北大生らとの懇親会の席ではサムギョプサルと焼酎で談笑も楽しんだ。

「自分の出身地も明らかにしたし、故郷にも行ってきたので、最後の願いがかないました。 韓国と日本は近いので、仲良くする時が必ず訪れるでしょう。 ただ、友達の中には故郷を訪ねてきてこの世を去った人がたくさんいるので、私もそうなるのではないかちょっと心配です」

大邱/文・写真 ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2014/10/06 20:59
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/658548.html 訳J.S(2422字)

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