恐怖の夜が明けた。
19日夜(現地時間)から20日明け方まで、イスラエル軍戦闘機の轟音とミサイル発射の音、艦砲、砲撃など爆発音が夜通しパレスチナ ガザ地区を揺るがした。 20日、夜が明けるとガザシティのシパ病院には遺体と血まみれの負傷者を搬送する救急車のサイレンが鳴り響いていた。
救急車から負傷者を載せた担架が下されるたびに血の海が広がる。 死傷者のからだからは血とともに建物の破片が食い込んでいる。 シパ病院の応急室はすでに飽和状態だ。どこが応急室なのか区分することもできない。 搬送されてくる順に死亡者と負傷者を分離して、廊下でも緊急を要する患者を先に治療し始める。 薬品は既に底をつき、裂傷を緊急縫合する手術しかできない。 家族は病院外に集まって、自分の血縁が死なないことをひたすら祈っている。 救急車のサイレンと人々のため息だけが重い沈黙を破る。
負傷して血まみれになった5才の少年カシムが担架で運ばれてきた。 ほとんど同時にカシムの父親の遺体が病院に到着した。母親と姉も負傷して運ばれてきた。 カシムの家族が暮らしていたガザ地区北西部のアパートは、イスラエルのミサイルで崩れ落ちた。 全身に火傷を負った幼い少年の遺体、爆撃で建物が崩壊し土ぼこりに全身が覆われた少女の遺体、血まみれなって苦痛に泣き叫ぶ幼い負傷者…。
病院に死傷者が続々と運ばれる間にも…爆撃は止まなかった
イスラエルはハマスが民間人の住宅に隠れていると主張して、村とアパートまで無差別に攻撃した。 ハマスと関係ない民間人家族が被害にあったケースが多かった。 民間人死傷者数を最小化するため最善を尽くしているというイスラエル軍の発表は誰も信じていない。 ガザ地区のタクシー運転手マフムドは「イスラエルはすでに長期に亘りガザを封鎖し、民間人を無差別爆撃してきた。 ガザ地域でイスラエルによって友人や家族を失わなかった人は1人もいない」とし「イスラエルも同じ目にあってみればこの気持ちを理解できるだろう」と怒った。
シパ病院にはシャジャイヤ地域など各地から死傷者が絶えず押し寄せている。 イスラエル軍は19日夜から20日明け方まで、ほとんど5秒間隔でシャジャイヤに砲撃を浴びせた。 一夜でこちらは廃虚になった。 ガザの保健部長官はシャジャイヤ攻撃だけで少なくとも70人が殺され、犠牲者の中には子供が17人、女性が14人含まれていると明らかにした。 イスラエルが去る8日に軍事作戦を公式に始めて13日目に最悪の死傷者を出し‘血の日曜日’を記録したわけだ。マフムード・アッパース パレスチナ自治政府首脳はこれを「虐殺」と規定した。 イスラエルのガザ地区攻撃が14日間続いて、21日までにパレスチナの死亡者はすでに500人を越えた。
自身が重傷を負いながらも、一瞬にして愛する家族を失った悲しみと怒りのために自身の苦痛は感じていないように見えた。 ある負傷者は救急車で搬送されたために家族が命を失った事実をまだ知らない人もいた。 病院の内外は悲しみと怒りが充満し、その渦中にもイスラエルの爆撃は続いていた。 シパ病院でボランティアをしているノルウェー人医師ギルバートは「深夜12時頃から崩れた建物の下敷きになった人々を助けてくれという救急車を要請する電話が病院に殺到したが、救急車がとても足りない」と話した。
遺体の収用と負傷者救出のために一時的に合意した戦闘小康期間に、遺体が続々と運ばれてきた。 多くの遺体からは激しく焦げた臭いがし、一部は腕と脚がない状態であった。
遺体安置所もまた遺体を確認して引き渡しを受ける人々で一日中混雑していた。 ある母親は息子の遺体を確認するなりその場に座り込み気絶して、またある者は遺体の頭を抱えてとめどなく涙を流した。 墓地に行くために遺体を車に乗せながらも、家族たちは遺体を包んだ白いビニールをさすり続けた。
パレスチナの阿鼻叫喚は爆撃現場だけではない。 ガザ地区全体が阿鼻叫喚の現場に変わっている。 イスラエルが最悪の大規模空襲を行った19日以後、爆撃を避けて臨時待避施設に向かう難民の数も急激に増えた。 特にイスラエル国頃に近い東部では、集中的に爆撃を受けたためガザ市内には歩いて避難してくる東部の住民たちが押し寄せている。 車の屋根にマットレスを載せて、あらゆる家財道具を持って避難して来る家族で混雑している。 歩いてガザシティまで到着した人々は救護団体が提供したバスに乗ってガザ市内のあちこちの学校に設置された待避所へ向かった。
世界で最も大きくものものしい監獄と呼ばれたガザは、今は世の中で最も悲しい悲劇の現場になった。 多くの人々が亡くなり負傷しているが、いつこのような苦痛が終わるのか誰にも分からない。
ガザ地区キム・サンフン江原(カンウォン)大教授