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[2014企画] パク・テギュンのベトナム戦争(1)連載を始めるにあたり

登録:2014-01-03 21:41 修正:2014-09-03 16:43
派兵50周年、4650人の墓の上で戦争の意味を問う

 パク・テギュン教授はソウル大で‘経済開発計画研究’で博士学位を受けた歴史学者だ。 現在ソウル大で国際大学院副教授として在職している。 歴史と大衆の疎通のために努力しながら、韓-米関係、南北関係、ベトナム戦争など韓国現代史の主な事件の実体を明らかにするために孤軍奮闘してきた。 <韓国戦争>という本を書いたりもした彼が20世紀のもう一つの戦争‘ベトナム戦争’が韓国と世界に残した足跡を<ハンギョレ>紙面に隔週で解きほぐす。

 ‘越南(ベトナム)で戦死’という一節が碑石の後方に彫られた墓地がソウル銅雀洞(トンジャクトン)の国立顕忠院(ヒョンチュンウォン)の一画にある。 全てではないが、いくつかの墓の前には小さな追慕席も置かれている。 "会いたい 私の息子よ 夢ででも会わせてくれ" (陸軍兵長 キム・ドンインの墓、1970年3月14日 越南(ベトナム)で戦死) "会いたい私の息子ユナ、世界の平和のために美しく眠りについたユナ! 会いたいなー 笑ったその姿、夢でもいいから一度会わせてくれ"(海軍中士(訳注:旧日本軍の軍曹に相当)パク・セユンの墓、1970年3月31日越南(ベトナム)で戦死) 今年で韓国軍がベトナムに派兵されて50年になった。 1964年9月22日韓国軍の第1移動外科病院およびテコンドー教官団がサイゴン(現 ホーチミン市)に到着し、彼らはまもなくホーチミンから約100km離れたプンタウに配置された。 以後1973年3月に撤収する時まで。計4回の派兵を通じて32万5000人余りの韓国軍がベトナムに派兵され、この内5000人余りが戦死した。 参戦後にも1万2000人の将兵が枯れ葉剤による疾病判定を受けた。 彼らはなぜ遠い異国で死ななければならず、戦争の後遺症で今でも苦労しなくてはならないのか?

英国とフランスは参戦を拒否した

 ベトナム派兵は韓国の歴史上初めての大規模、長期の海外派兵だった。 朝鮮時代、数回にかけて中国の明国を助けるための派兵はあった。 これは大概明国との関係維持を名分とするものであり、韓半島の国境から遠くないところに派兵された。 ベトナム派兵は韓国と直接的な利害関係がないにもかかわらず、韓国から遠く離れた地域に派兵された最初の事例であった。 そして実質的に長期間の作戦と戦闘が繰り広げられた唯一の派兵でもあった。

 韓国はなぜベトナムに戦闘部隊を派兵せざるを得なかったのだろうか? なぜそんなに遠方で多くの韓国軍人が死んでいかなければならなかったのか? 米国の積極的介入によって始まったベトナム戦争に、米国の最も近い同盟国である英国とフランスが参戦を拒否したのに、なぜ韓国政府は派兵を決めたのか? 外国の軍隊が韓国の防衛を務めている状況で、韓国軍が他国を守るために派兵することがどうして可能だったのだろうか?

1964年9月22日サイゴンに到着した
第1移動外科病院・テコンドー教官団
最初の派兵から1973年3月まで
32万5000人がベトナムに行き
その内5000人が帰ってこれなかった

最初の長期海外派兵で
経済成長して西欧文化流入
南北関係が最悪ば状況で
住民登録制度の本格推進など
巨大な変化が韓国を覆った

 9年にわたった韓国軍のベトナム派兵は、韓国社会に巨大な変化をもたらした。 1964年から1973年までの期間は、韓国社会が高い経済成長率を記録した時期だった。 第1次経済開発計画を修正した補完計画が出てきたのが1964年であり、1967年の第2次経済開発計画が終えられたのが1972年だった。 この期間。経済危機を克服するための大統領緊急命令8・3措置(1972年8月3日)があったが、韓国経済は国民総生産で年平均8%以上の急成長を記録した。 これまた韓国歴史上初めての経験だった。

 韓国軍が米軍と共にベトナムで活動したことを契機に、西欧の大衆文化が本格的に韓国社会に流入した。 ミニスカートが登場し、断髪令(1895年)以来初めて長髪が流行した。 演歌の代わりにギター歌手が人気を得たし、ベトナムを通じて米国や日本の電子製品が国内に流入した。

 韓国戦争時期に大規模軍隊を派兵した中国内部の社会統制が強化されたように、韓国でも徴兵制の強化、住民登録制の制度化が行われた。 住民登録制度は1960年代初めから始まっていたが、ベトナム派兵時期になって本格的に実施された。 もちろんここには南北関係の悪化という外部的要因もやはり重く作用したが、当時の大統領府襲撃事件やプエブロ号事件などは全て韓国軍のベトナム派兵と深い関連があった。 これはまた、1960年代中盤ベトナム戦争で危機を感じた北韓政府が、攻撃的対南政策を採択する中で起きた事件であり、この時期の北韓の国防・経済並進路線は北韓社会が経済的に問題を露呈することになる出発点でもあった。

 巨大な変化は韓国社会だけに起きたわけではない。 ベトナムという辺境に位置した一国家に対する米国の介入により本格化したこの戦争は、全世界に巨大な衝撃を与えた。 何よりも重要な変化は、1944年に始まった米国中心の世界経済秩序が崩れたということだ。 第2次世界大戦が終わり世界唯一の覇権国家として登場した米国は、ドルの金本位制(金1オンス=28.35グラム=7.56匁当たり35ドル)を通じて世界経済を統制した。しかしベトナム戦争にともなう米国の戦費支出でドルは世界唯一の基軸通貨の座を守れなくなった。 代わりにドイツのマルク貨と日本の円がドルと地位を並べることになった。

米国市民は‘なぜベトナムなのか’と尋ねた

 映画<フォレスト・ガンプ>によく現れているように、米国社会は国内外的に巨大な変化を経験した。 外部的には、米国は韓国戦争当時に敵国だった中国と手を握り、社会的には巨大な反戦デモの波にまきこまれた。 第2次世界大戦を含めて米国が建国以来 海外で行った戦争に全面的な支持を送ってきた米国社会が、初めて米国の戦争政策に反旗を翻し始めた。 映画<プラトーン>で描写されたベトナムでの戦闘場面をTVで見ることができた米国市民が‘なぜ米国がベトナムに行かなければならなかったのか?’という質問を投じた。 そして民主主義の象徴である米国社会で戦争に反対するデモ隊に発砲した事件(1970年5月4日ケント大事件)もこの時期に起きた。 そのために当時米国社会は‘お元気ですか’(Good Morning)と自らに問い、俳優ロビン ウィリアムスは同名の映画で米軍放送の進行者として出演して、毎日毎日ベトナムの戦場にいる米軍にこの挨拶を伝えた。

 戦争反対の雰囲気は米国だけでなく全世界を席巻した。 今は歴史認識と過去の問題、領土問題で韓国・中国と葛藤している日本は、アジアで反戦デモが最も大きく起きた国家であった。 ヨーロッパで起きた反戦の雰囲気は近代主義(モダニズム)を越える脱近代主義(ポストモダニズム)の波を呼び起こした。 ベトナム戦争は20世紀後半の冷戦的秩序だけでなく近代の精神に対しても根本的な疑問を提起する契機となった。

 米国中心の世界秩序に対して批判を提起した修正主義的学問傾向もこのような社会的雰囲気の中で胚胎した。 米国のベトナム戦争介入に対して世界の学界が投げかけた質問は<韓国戦争の起源>(ブルース・カミングス)という本で韓国社会に大きな衝撃を投げてくれた。 ‘米国はなぜベトナムに行ったのか?’という質問は‘米国がなぜ韓国に行ったのか’という質問と連結される問題だったためだ。 最近世界的な冷戦史学者であるギャディスが‘ヨーロッパから招かれなかったソ連’が引き起こした問題に対して批判的に分析したが、<韓国戦争の起源>は修正主義の影響の中で‘アジアから招かれなかった米国’に対する問題を提起した。

 修正主義が大手を振るい自由主義的雰囲気が広がる中で、アジアでは全く違う流れが現れもした。 タイでは1971年にクーデターが起き、翌年にはフィリピンと韓国で戒厳令と維新体制が宣言された。 1973年チリ クーデターによって世界史で初めて民主主義的選挙によって樹立された社会主義政府が没落した。

 逆説的流れは永くは続かなかった。 絶対的強者である米国のヘゲモニーが、ベトナム戦争により動揺する中で、米国の陰にいた他の周辺部でも少しずつ変化が現れた。 1975年南ベトナムが崩壊しベトナムが統一されながら周辺部が本格的にうごめいた。 1979年イランとニカラグアを始まりに、1980年代中盤にはフィリピンと韓国、台湾で変化の動きが起きた。 映画<アルゴ>が描写したように、イランの米国大使館で人質事件が発生し、フィリピンの米軍基地は撤収し、韓国では反米デモが発生した。

 世界体制の変化の中でビートルズが一時代を風靡し、ベトナム参戦を拒否したモハメド・アリは既成政治家たちの非難を受けながらも一時世界市民の英雄としてあがめられた。 ヒッピー文化が全世界を席巻し、麻薬があたかも既存秩序に反対する知性の象徴のようになった。 反戦と平和を叫んだジョン・レノンは暗殺され、ドイツと日本の反戦デモ隊は赤い軍隊(赤軍派)、すなわちテロリストになった。 極端な全体主義下にあった北韓が、当時第3世界国家が組織した非同盟会議に参加できた反面、韓国の代表はこの会議への出席を拒絶されたのも当時世界的に吹き荒れた反戦の嵐の中で起きたことだった。

 反戦と修正主義に対する反動もやはり荒々しく起きた。 ベトナム戦争の後遺症で世界経済が疲弊する時、新自由主義が本格的に胎動し、反戦と脱近代主義に対する反動で新しい保守主義が胎動した。 あたかも韓国の民主化以後、これに対する反動で冷戦時代よりさらに非論理的な保守主義が現れたように。 カーター大統領の人権外交が‘ベトナムであった米国の戦争’に対する反省の最後を飾ったとすれば、米国のレーガン大統領と英国のサッチャー首相、日本の中曽根総理はその反対側に立っていた。 まさにこの時、日本で初めて極右的な歴史認識と政治家たちの靖国神社参拝が始まった。

 このようにベトナム戦争は韓国と世界を揺さぶった。 それではベトナム戦争とその時代の変化はどのように記憶されるのだろうか? 2000年代初期、外国で開かれたある学会で、韓国のある大学教授はベトナム戦争を‘韓国に神が下したプレゼント’と表現した。 現在の韓国社会が記憶するベトナム戦争を最も直接的に示す表現だった。 日本のある総理が韓国戦争を、神が日本に下さったプレゼントと表現したことが知らされるや非難の声を上げた韓国社会が、ベトナム戦争に対して同じ声を上げたのだ。

アン兵長は忘れられ、キム上士だけを記憶

 韓国戦争特需に対する日本極右勢力の認識が、戦争による韓国人の苦痛を無視したとすれば、韓国社会のベトナム戦争認識もやはり戦争時期のベトナムの人々の苦痛を眼中に置かなかった。

 このような類似性は韓国戦争を通じて戦争特需の恩恵を受けた日本と、ベトナム戦争を通して戦争特需を享受した韓国の状況を象徴的によく見せる。 日本の多くの歴史教科書で韓国戦争に対して言及しており、その中でも特に戦争特需の部分が強調されている。 韓国の歴史教科書もやはりベトナム戦争に対する叙述で、経済的側面での戦争特需が最も重要な内容を占めている。 戦争を通して稼いだ金は、韓国経済の跳躍にとって重要な基盤になったし、ベトナム戦争に進出した韓国企業らは1970年代オイルダラーに力づけられた中東での建設ブームに便乗できたということが、ベトナム戦争に対する叙述の主要内容になっている。

1964年9月23日 南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)で1次派兵団の歓迎式典が開かれた

 これは米国でのベトナム戦争に対する認識とは全く違う。 米国史上初めて敗北した戦争だったベトナム戦争は、米国人には誤った時に誤った場所で誤った戦術で戦った戦争として記憶されている。 このような認識は<地獄の黙示録>や<プラトーン>のようなベトナム戦争の状況を否定的に描写した映画を通じてよく見られる。

 もちろん今の米国は、イラクとアフガニスタンで再びベトナム戦争と同じ泥沼に落ちている。 人間は忘却が上手なバカなので、戦争が終わった時にはもう二度と戦争をしてはならないと考えても、20年も経たずに再び戦争を起こす悪循環が繰り返されるという最近の戦争理論を米国が証明しているのか。

 韓国社会は違う。 2003年に韓国政府が韓国軍のイラク派兵を決める時、ベトナム戦争に対する韓国社会の認識と記憶がよくあらわれた。 当時、国会で時ならぬベトナム戦争を巡る論争が広がった。 ベトナム戦争での戦争特需を記憶している韓国人は、韓国戦争の特需を記憶している日本人たちが自衛隊派兵を支持したことと同じように、イラクに対する韓国軍の派兵を支持した。 イラク派兵がもう一つの特需を持たらすだろうと期待したのだろうか? さもなくば‘越南(ベトナム)から帰ってきたキム上士’が再び再現されるだろうと信じたのか。

 このような認識の中で<武器の陰>(ファン・ソギョン著)の主人公であるアン・ヨンギュ兵長の経験は、ベトナム戦争の記憶から忘れられている。枯れ葉剤被害と戦争のトラウマのために苦痛を受けている参戦軍人たちも忘れられている。 戦争時期の洋公主(米軍兵士相手の売春婦)とライタイハン(ベトナムに派遣された韓国軍兵士の強姦などにより生まれた子供)もやはり同じだ。 韓国人にとってベトナムは単にもう一つのエキゾチックな旅行地として記憶されるだけだ。 韓国の歴史教科書はベトナム戦争を韓国戦争と同じ南北戦争として定義する。 また、若い世代にとってベトナム戦争はミュージックビデオ‘ご存知ですか’(チョ・ソンモ)を通じて記憶されている。

 韓国社会のベトナム戦争に対する認識は、客観的な歴史的事実に基づいているか? 果たしてベトナム戦争とは何であり、その戦争が与える教訓は何か? ベトナム戦争についてはなぜ特定の側面の記憶だけが残ったのだろうか?

"お母さん、私は人を殺しました"

 ベトナム派兵から50年が過ぎた時点で国立墓地を訪ねた。 ベトナムに初めて派兵された第1移動外科病院所属だったイム・ナムギュ、パク・ハンチャンの二人と席を共にした。 二人と共に訪れたベトナム戦死者墓地は2番墓地と51番墓地だった。 51番墓地では二人と一緒に参戦して亡くなった方が埋葬されていた。 そして2番墓地の最前列には先日亡くなった駐ベトナム韓国軍初代司令官チェ・ミョンシン将軍が埋葬されていた。 <ベトナム戦争と私>という回顧録を執筆したチェ将軍は、韓国軍のみならず米軍からも高く評価される人物だった。 彼は息をひきとりながら将軍墓地ではなくベトナム戦争を共にした兵士墓地に埋めてほしいと遺言したので、兵士戦死者墓地の最前列に埋葬された。

 2番墓地でもう一つの逆説的な状況を思い出さざるをえなかった。 ベトナム戦争に参戦して血を流した将兵たちは、皆どこに行ったのか? 何としても会いたいという両親の手紙の下で横たわっている彼らは、どのように記憶されるのだろうか? ベトナム戦争に対する西欧の記憶から韓国軍は全て消えた。 西洋の歴史家が書いたベトナム戦争に関する本に韓国軍の存在を探すことは不可能だ。

 ベトナムも同じことだ。 ベトナムにある戦争記念館には韓国軍に関連した写真は殆どない。 韓国軍が活動した地域に韓国軍の活動に関連した跡が残っているとしても、あたかも約束でもしたかのように、ベトナムからも米国からも歴史の中からもベトナム戦争に参戦した韓国軍の姿は消された。 韓国戦争が‘忘れられた戦争’ならば、ベトナム戦争での韓国軍は‘忘れられた軍人’なのか?

 それで不可避的に思い出さざるを得ないのが、韓国軍に対する米国政府の評価だ。 ベトナム戦争当時、米国政府は韓国軍を必要とする時には非常に効率的な軍隊だと高く持ち上げて、韓国軍にかかる費用を減らさなければならない必要が生じた時には韓国軍は非常に非効率的だと評価した。 実際、戦場で主役だった韓国の参戦軍人たちは政治的理由によって今どこにおいても主役として評価されることはできなかった。

戦争特需の恩恵を得た我々は
トラウマに苦しめられている参戦軍人と
ベトナムの人々の苦痛を無視し
‘神が下したプレゼント’として記憶して
また別の派兵を支持した

ベトナムの戦争記念館には
韓国軍の写真は殆どなく
米軍は(派遣韓国軍を)非効率的な軍隊として評価
韓国戦争が‘忘れられた戦争’ならば
ベトナム戦の韓国軍は‘忘れられた軍人’

 これと共に悲しい事実は、ベトナム戦争自体と韓国軍の参戦を巡る評価が韓国社会の理念的分裂の一つの表象になっているという点だ。 ベトナム戦争に対する歴史が言及されるたびに、韓国社会は疲弊する。 冷戦体制下で皆が被害者にならざるをえなかった戦争、しかしその真実に接近しようとする努力がまた別の被害者を作り出すわけだ。

 今回の連載を始める理由はまさにここにある。第一に、歴史的事実を確実に明らかにしようということだ。 誤って知らされていたり縮小された事実が特定の記憶を作り出していて、重要な意味を持つ他の側面の記憶は忘れられている。 第二に、ベトナム戦争の歴史的記憶が現在の韓国社会でそのまま作動しているという点だ。 特定の方向で残っている記憶は、現在の韓国社会を特定の方向に導く可能性が高い。 第三に、これを通じて現在の韓国社会が本当に得なければならない教訓は何であり、その教訓を通じて均衡的で事実に基づいた記憶を再生しなければならないということだ。

 国立墓地を去る際に訪ねた休憩室では書画展示会をしていたし、その中のある作品から学徒兵の手紙を見ることができた。

 "お母さん、私は人を殺しました。石垣一つを間に挟んで十人余りにはなるでしょう。 敵は脚がもげ、腕が、腕が飛んでいきました。 お母さん、戦争はどうしてしなければならないのでしょう。 昨日下着を洗って着ました。 洗った清潔な下着を着ながらも私はなぜ囚人服を思い出したのか分かりません。 もしかしたら私は今日死ぬかも知れません。 でも、私は生きて帰ります。 必ず生きて帰ります。 お母さん、サンチュの葉が食べたいです。 冷たい泉から歯がしみるように冷たい水を限りなく飲み干したいです。 ア、奴らが近づいて来ます。 また書きます。 お母さん、さよなら さよなら ア、さよならではありません。 また書きますから。"

パク・テギュン ソウル大国際大学院教授

作家によれば、この手紙は1950年の戦死したある学徒兵が書いた。 ベトナム派兵50年を迎え、特集企画を始めながら64年前にある学徒兵が書いた手紙が痛切に胸に迫る。 なぜ人間は戦争を通して自らを極限状況に追い込むのだろうか? 我が国社会が再びそのような悲劇的状況を経験しないようにするためには、何を記憶して何をするべきか?

パク・テギュン ソウル大国際大学院教授

※第2回は1月11日付に掲載予定です。

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/618176.html 韓国語原文入力:2014/01/03 15:12
訳J.S(8275字)

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