原文入力:2012/06/05 22:11(1829字)
←日帝強制占領期に勤労挺身隊として強制徴用され、日本の不二越鋼材に連れて行かれたキム・ジョンジュ(右)ハルモニと、三菱重工業に動員された姉のキム・ソンジュ(左)ハルモニが先月31日ソウルで開かれた集会に参加して‘日帝強制動員被害対策’を要求している。 勤労挺身隊ハルモニと共にする市民会提供
強制徴用被害キム・ジョンジュ、キム・ソンジュ氏の話
昼食に食べた‘三角パン’は即座に飢餓を呼び起こした。 ベアリングを削る仕事をした14才の少女は宿舎脇の草を食べた。慢性疾患で髪の毛が抜けた。 日本人少女たちが弁当を食べるのを見て本当に泣いた。 履物を履いて寝て爆弾が落ちれば生きるために走った。 1945年10月に帰国するまで重労働と空腹に苦しみ続けた。
キム・ジョンジュ(81・ソウル、松坡区(ソンパグ))氏は1945年2月、日本、富山県の不二越鋼材工業(株)の軍需工場に連れて行かれた。 全南(チョンナム)、順天(スンチョン)南小学校5年生の時だった。 ‘日本に行った姉さんに会える’という日本人担任教師の話にだまされて朝鮮女子勤労挺身隊として動員された。 姉のキム・ソンジュ(83・京畿道(キョンギド)、安養市(アンヤンシ))氏は1944年5月15才で勤労挺身隊に動員され日本、名古屋の三菱重工業(株)航空製作所で仕事をしていた。
女学校に行かせるといったのに…
15才の姉は三菱に
姉に会えるという話に…
14才の妹は不二越に
姉のソンジュ氏も小学校を卒業した後‘女学校に行かせる’という日本人教師の言葉にだまされて日本に渡り口では言えない重労働に苦しめられた。 賃金は一銭も受け取れなかった。 地震のときに倒れて人々に踏まれたせいでよく歩くこともできなくなり旋盤で左手人さし指も切断した。
キム ハルモニ姉妹の人生は日本から帰った後、より一層凄惨だった。‘挺身隊’という名称のために日本軍慰安婦と誤解する人々が多かったせいだ。
19才で結婚した妹ジョンジュ氏も‘挺身隊’履歴のために夫と不仲を体験しなければならなかったし、35才の時に息子を連れて家を出た。 2003年損害賠償請求訴訟に参加したことを知った息子(50)と孫(高3)に、真実を話せなかったことについて許しを請うたと語った。 ジョンジュ氏は5日「うらめしかった。 どこにも話せなくて…。 政府も私たちの心情を認めなかった。 私の胸の傷は億万の金でも解決できない」として泣き叫んだ。
"帰国後には慰安婦と誤解され
受けた傷は億万の金でも癒えない
(韓国)最高裁判決がとてもうれしくて
8日には不二越前で集会"
キム ハルモニ姉妹は勤労挺身隊ハルモニらと共に不二越と三菱重工業を相手に日本の裁判所に損害賠償訴訟を起こしたが全て敗訴した。キム・ジョンジュ氏など23人は2003年4月、不二越を相手に訴訟を起こしたが、ついに2011年10月日本最高裁判所はハルモニたちの敗訴を確定した。 ジョンジュ氏は先月24日、韓国最高裁が‘韓-日請求権協定があっても個人請求権は生きている’と判決したという便りに、「テレビでニュースを見てとてもうれしかった」として「政府や国会で急いで解決して欲しい」と話した。
キム・ジョンジュ氏は来る8日昼、東京不二越(株)本社前で開かれる‘韓国・日本共同行動’集会に参加して日本政府と不二越側の謝罪を要求する予定だ。キム氏ら不二越被害者3人、‘勤労挺身隊ハルモニと共にする市民会’のキム・ヒヨン代表など5人が一緒に7日出国する。
1944年8月、女子挺身勤労令が公布されて1944~45年朝鮮女子勤労挺身隊に連れて行かれた13~15才の少女は不二越富山工場(1089人)と三菱重工業(288人),静岡県の東京麻糸紡績(株)沼津工場(300人余)等で重労働をしたが賃金を受けとれずに帰国した。 不二越鋼材工業(株)は1928年ベアリングなどを生産する業者として出発し、太平洋戦争時期に急成長し、現在は産業用ロボットなどを生産する不二越(株)に変わった。
光州(クァンジュ)/チョン・デハ記者 daeha@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/536311.html 訳J.S