尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領による突然の非常戒厳令の布告とそれに対する野党政治家や市民の戦いは、日本にも大きな衝撃を与えた。戒厳令がテレビで伝えられるや否や、大勢の市民が野党議員とともに国会議事堂に集まり、軍が議事堂に侵入するのを防いだ場面を見て、韓国市民社会の底力を見せつけられた思いがした。
韓国でヒットした映画「ソウルの春」を私も11月に見たばかりであった。この映画の最大の教訓は、違法で、周到な準備を欠く実力行使による体制転覆の動きも、初動の段階で鎮圧できなければ、暴力が既成事実となり、上命下服の軍隊組織は違法な反乱軍の側につきうるという点である。
民主主義は、権力をめぐる戦いを言葉によるものに限定することで成り立っている。最近では、顔を合わせての議論よりも、ネット上の言葉のやり取りが政治に大きな影響を与えるようになった。しかし、民主主義を破壊しようとする企てに対しては、市民の物理的存在が重要となる局面もある。国会の建物は民主主義の物理的拠点である。国会議員が集まって戒厳令の撤回を決議することも、この建物の中で決議を上げなければ効力を持たない。だからこそ尹大統領は軍隊を国会議事堂に派遣したのであり、また、野党議員もこれに先んじて国会に入ろうとした。一連の事態から、決定の中心を占有するために体を張ることの重要性を教えられた。
私が大学生だった時代に、韓国では朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の暗殺、全斗煥(チョン・ドゥファン)によるクーデター、光州事件など、大きな政治的事件が続いた。弾圧にも屈せず民主化運動を進める若者には、隣国のことながら、大きな敬意を持っていた。1980年代末の民主化は、東アジアで最初に起きた市民自身による民主主義の獲得であった。そうした経験は韓国の人々に引き継がれ、民主主義の精神が身体化されたということができる。
制度としての民主主義を強権的な政治家が壊そうとすることに対して戦うことは、ある意味単純である。われわれが日々向き合わなければならない問題は、民主主義という制度を使って、利害が対立する政策課題について解決策をつくり出し、合意を構築することである。日本も韓国も、政府指導者を支える与党が国会(日本の場合は衆議院)で少数派であり、政府は政策の実現に大きな苦労を強いられている。韓国の場合、次の大統領が決まらなければ、政府や議会は統治能力を回復できない。日本では、今年(2025年)7月に参議院選挙が行われる予定で、石破茂政権の支持が低いままであれば、この選挙でも与党が敗北する可能性がある。
選挙によって議会の構成に民意を反映させることは民主主義の基本であり、安定的な多数派が形成されないとしても、与党の劣位を国民の選択として認め、そのうえで統治の方法を考えるしかない。
日本の場合、少数与党の状況は議会における討論による政治の回復をもたらすという、よい効果ももたらしている。2012年末に自民党と公明党の連立政権が復活して以来、与党は国会で常に安定的多数を占めてきた。日本では、多数決と民主主義が同一視される傾向がある。与党内部で政策について合意が成立すれば、決まったも同然となる。国会で野党が質問しても、政府はまともに答えることを避け、一定の審議時間が経過すれば、採決を行って法案や予算が成立するということが繰り返された。国会審議から、まじめな言葉が消えたと評することもできる。また、この間、首相による権力の私物化やそれにまつわる公文書の改ざんなど、重大な不祥事が相次いだ。国会はこうした権力犯罪について調査権を持っている。当然野党は追求するが、多数を占める与党が調査権の行使に反対すれば、疑惑は隠蔽されたままになる。
少数与党状態になると、自民党はこれまでの驕りを捨てざるを得ない。この年末の臨時国会では、少数政党の意見を聞いて、政策の調整が行われた。ある意味で、国会が政策論議の舞台になった。1月からは予算や重要法案を審議する通常国会が始まる。与党のみならず、野党を含めた議員の政策能力や責任感が問われることとなる。これは国民にとっても政治的学習の機会となるに違いない。
山口二郎|法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr)