10年前の4月16日。空は素晴らしく晴れわたっていた。営内に復帰するために車に乗ると、車内でラジオを聞いていた運転兵が興奮した声で私に言った。「人事課長、仁川(インチョン)から修学旅行に向かう途中だった船が沈没したそうです」「本当に? なんてこと…」「およそ300人乗っていたそうですが、でもみんな救助されたそうです! この子たちは修学旅行の歯のネタ(自慢、虚勢を張ることを意味する海兵隊の隠語)ができますね」。運転兵と私は復帰する車の中で春風を浴びながら、修学旅行にぴったりな天気だというのんきなことを言っていた。その時は、そのニュースが歯のネタなどではなく、途方もない規模の社会的惨事となることをまったく知らなかった。退勤後、ニュースチャンネルの報道を見てようやく「全員救助」は真っ赤なうそだったことを後から知った。
4月17日からは、あらゆる指示や公文書があふれはじめた。公文書は「安全」という文字を用いることの許されたあらゆる内容について指示し、とりとめもなく様々なことを繰り返し要請していた。直ちに部隊施設の安全を診断して報告せよ、部隊の安全装具の状態を確認せよ、部隊員全員に対する個人面談を実施して根拠を残しておけ、事故が懸念される者を確認して措置し報告せよ…。2014年だけでも、部隊全体の安全診断は優に10回以上おこなったと思う。普段なら上半期と下半期の2回、そして災害に備えた随時点検をさらに数回ほどがせいぜいだ。安全診断についての指示は、セウォル号の救助状況が絶望的になるほど、セウォル号の沈没をめぐる疑惑が膨らむほど、より頻繁になった。以前の診断の後続措置がまだ完了してもいないのに、新たな指示が下された。
上の方では、内容よりも安全診断をしたということ自体、その結果の報告を受けたということ自体の方が重要だと考えていた。しかし、何度も同じ指示が下されれば、ある瞬間から受け取る側は要領よくしなければならないという気持ちが芽生えるものだ。セウォル号惨事の余波と後続措置が続いていたその年の6月、江原道高城(コソン)の第22師団で銃乱射事件が発生した。世間には「イム兵長事件」として知られるまさにその事件だ。犯人のイム兵長は、緊張度が高く実弾の装填された銃器を持って任務に就くGOPに投入するにはそもそも無理のある「A級関心兵士」に分類されていたが、投入を前にB級に変更されていた。事故直後、一部からは、GOP投入兵力を確保するために、無責任に等級を引き上げたのではないかとの批判の声があがった。陸軍の捜査でも、イム兵長に対する集団いじめの供述が確認された。結局、第22師団銃乱射事件は、人員と銃器類の管理のあらゆる面で総体として発生したずさんな管理と放置から生じた悲劇だった。あんなに誰もが安全、安全と大騒ぎしていたまさに2014年にだ。
最近「真実の力 セウォル号記録チーム」が出版した本『セウォル号、改めて記すあの日の記録』には、次のような一節がある。「この苦しみの記録のど真ん中を通らなければ、私たちはどこにも向かうことができない。惨事の記憶は未来へと向かう私たちの足を引っ張るものではなく、現実に順応しようとする私たちの頭をつかんで起こす。(中略)私たちがこの記録と記憶から逃げようとする時、やってきた通りにやり、生きてきた通りに生きようとする時、韓国社会は2014年4月15日にセウォル号が出港したあの夜の状態へと逆戻りせざるを得ない。惨事を招いた社会構造を再生産するのは、それほど簡単なことなのだ」
セウォル号を唱えるのはもうやめろ、交通事故なのになぜやたらと意味を与えるのか、という言葉を聞く度に、2014年4月16日以降、安全という名であふれたあらゆる公文書、「また?」と言って疲れていたあの時を振り返る。一方、あの年、数々の点検が繰り返されたにもかかわらず味方の銃に撃たれて死んだ将兵と、その銃を撃たざるを得なかった者の運命についても。そして時が流れ、2022年にソウルのど真ん中、梨泰院(イテウォン)で亡くなった159人の人々、韓国社会を揺るがした事故についても。記憶しなくてもよく、いつもやっていたように「やったことにして」生きていけば大丈夫だと思っている、だからもう忘れようとしている人々の胸に、この一節を刻みつけたい。
パン・ヘリン|軍人権センター国防監視チーム長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )