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[特派員コラム]「朝鮮人追悼碑」撤去が意味するもの

登録:2024-02-01 20:03 修正:2024-02-18 15:24
群馬県の県立公園「群馬の森」にあった強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑は、直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に幅4.5メートル、高さ1.95メートル大の碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている=高崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 20年間、群馬県高崎市にある県立公園「群馬の森」で韓日友好の象徴となっていた強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑が撤去された。

 群馬県は公園を全面閉鎖した中で、1月29日に追悼碑の撤去を始めた。取材が封鎖されると日本のメディアはヘリコプターを飛ばした。朝日新聞が31日に上空から撮った映像を見ると、追悼碑があった場所は空き地になっていた。直径7.2メートルの円形台座と碑文が設置されていた幅4.5メートル、高さ1.95メートルのコンクリート碑石は細かく砕かれ、うずたかく積まれていた。「記憶 反省 そして友好」と書かれた金属材質の碑文などは取り外し、追悼碑を建て管理してきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」に渡された。

 円形の台座と碑石を容赦なく壊したことをみると、県はこの追悼碑がどんな意味を含んでいるのか理解していなかったという気がする。空にまっすぐ伸びた高さ約4メートルの金色の塔と後ろのコンクリート碑石は、縦に大きな穴が空いている。この穴は朝鮮半島に向いている。群馬という見知らぬ地で犠牲になった朝鮮人の魂だけでも故郷に帰ってほしいという気持ちを込めたものだ。円形の台座には、道を見失わないようにと羅針盤が描かれている。撤去前の追悼碑の取材過程でこの話を聞いて、悲しくもありがたい気持ちでしばらく朝鮮半島の方を眺めた。

 日本の敗戦から50年の1995年、群馬の市民たちは自力で朝鮮人犠牲者を調査した。日本による植民地時代、朝鮮半島から群馬県の鉱山や軍需工場に強制的に動員された朝鮮人は約6千人余り、このうち300~500人余りが命を失ったと推定される。日本の市民たちはこの痛みを記憶し、未来に進むために2004年4月に朝鮮人追悼碑を建てた。

 日本の植民地支配と侵略戦争を謝罪した「村山談話」(1995年)、植民統治に対する痛切な反省・謝罪に言及した小渕恵三元首相(1937~2000)と金大中(キム・デジュン)元大統領(1924~2009)の「韓日パートナーシップ宣言」(1998年)は、日本の地方自治体が所有する公園に県議会の満場一致で朝鮮人追悼碑を建てる力になった。

 今回の追悼碑撤去は、強制動員被害者など歴史問題を強引に片付けてしまった尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と岸田文雄首相の関係改善が、韓日友好どころか「歴史の抹消」を煽っていることを明確に示している。2004~2012年の間に追悼式で出た「朝鮮人強制連行」発言で右翼団体が反発し、論議が大きくなったからといって追悼碑を壊してしまうとは、話にならない。

 日本による植民地時代の朝鮮人動員の強制性は、日本政府も国際機関で認めた内容だ。2015年7月、当時の駐ユネスコ日本大使は、日本が近代産業施設を世界遺産に登録した当時のユネスコ会議で「1940年代、一部の施設で多くの韓国人やその他の国民が本人の意思に反して動員され、過酷な条件で強制的に労役した」と明らかにしたことがある。

 状況がそうであっても韓国の尹政府は「韓日間で必要な疎通をしている」という言葉だけを繰り返した。これに対し、群馬県の山本一太知事は「(韓国など)外交ルートで何も来ていない」とし、上川陽子外相は「自治体の決定事項」としてコメントを回避した。そして3日間で追悼碑は消えた。

//ハンギョレ新聞社
キム・ソヨン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1126866.html韓国語原文入力:2024-02-01 18:40
訳J.S

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