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[コラム]自制力を失った公権力がもたらす悲劇 =韓国

登録:2023-06-06 06:34 修正:2023-06-06 10:29
自由な選挙で選ばれた政権が必ずしも民主的とは限らないことは、2000年代以降、世界各地で立証されている。なぜ保守政権が発足する度に民主主義退行の懸念が高まっているのか、尹大統領は振り返ってほしい。度を越した警察の対応が来年の総選挙を狙った保守票の結集という政治的目的に沿ったものだとしても、『自由論』に心酔した大統領ならば少なくとも守るべき線は保つべきではなかろうか。
5月31日、全羅南道のポスコ光陽製鉄所前で高空籠城を行っていた韓国労総金属労連のキム・ジュンヨン事務処長を警察が制圧している。警察は抵抗するキム事務処長を長さ1メートルのプラスチック鎮圧棒で約1分間殴り続けた=韓国労働組合総連盟の動画よりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 ポスコ光陽製鉄所前で高空籠城(煙突や広告塔など高い所に立てこもって要求や訴えを叫ぶデモの一種)を行っていた韓国労総の幹部を、警察がこん棒で殴りながら鎮圧する場面は衝撃的だ。全羅南道警察庁は「同幹部が鉄パイプを振り回して抵抗し、やむを得ず警察棒で制圧するしかなかった」と説明した。座り込みを解散させる妥当性はさておき、すでに抵抗能力を失った個人を複数の武装警察官が集団暴行する行為は正当化できない。自制力を失った警察力の行使が過去にどんな悲劇をもたらしたかを我々は覚えている。

 大統領の発言を受け、さらに踏み込んだ対応をする警察首脳部の態度からすると、今後似たような事件が起きてもおかしくはない。1991年4月、明知大学の学生のカン・ギョンデさんが死亡した事件は、内務部治安本部が「不法・暴力デモは国家保衛のレベルで強力に対応せよ」と第一線の警察に指示した後に発生した。建物の屋上で座り込みをしていた撤去民を早朝に無理に鎮圧し6人が亡くなった「龍山(ヨンサン)惨事」が起きたのは14年前のことだ。権威主義政権の最も目立った特徴の一つがまさに「(抵抗する個人や集団の)暴力」を理由にした公権力の無分別な暴力の行使だ。さまざまな法律や規定、慣行を見直しながら、これを統制してきたのが韓国社会の民主主義の発展過程だった。ところが今、その統制を尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権が再び緩めている。

 現政権が集会・デモに強硬対応する根拠として挙げているのは、「市民の不便」と「不法性及び暴力性」だ。ユン・ヒグン警察庁長は「市民の自由を人質にして慣行的に行われた不法行為に対し、警察として果たすべき役割を堂々と果たす」と述べた。「市民の自由」を掲げて市民の最も重要な権利である集会とデモを締め付けるのは詭弁に過ぎない。韓国の憲法は集会とデモを「許可を受ける必要のない基本的な権利」だと明確に規定している。集会とデモにたやすく「不法」のレッテルを貼るのは、思想の自由があるにもかかわらず「不穏な思想」は処罰するという反自由主義的発想のまた別の事例だ。

 誰かのデモは、他の誰かにとっては不便を強いられることにもなりうる。にもかかわらず、現代国家で集会とデモの自由を基本権として保障しているのは、他人に直接危害を加えない限り、単なる「不便」を理由に(集会とデモの自由を)規制してはならないという趣旨からだ。誰でも誰かに多少の不便をかけながら公に意思表明を行うことができる。これこそが多元化された社会でマイノリティが声をあげる重要な手段であるからだ。

尹錫悦大統領が5月23日、ソウル龍山の大統領室庁舎で国務会議を主宰している。尹大統領は「警察は不法集会・デモに対して厳正な法執行をすべき」と指示した/聯合ニュース

 警察の過剰対応の後ろには尹錫悦大統領がいる。尹大統領に最も大きな影響を与えた本はジョン・スチュアート・ミルの『自由論』だという。学生時代に『自由論』を読んで感銘を受け、経済学科から法学科に志望を変えたという話もあり、「尹大統領は19世紀の偉大な政治思想家であるミルの『自由論』に心酔したため、指導者として素養がある」というチョン・ジンソク議員(国民の力)の賛辞もあった。就任演説で「自由」を35回も言及し、機会あるごとに「自由民主主義」を強調する背景には『自由論』があると、マスコミは分析してきた。しかし、あらゆる自由の中でも「意見表明の自由」がその核心である理由を詳しく説明した『自由論』を、なぜ尹大統領は徹底的に無視しているのだろうか。

 ミルは集会とデモのような意見表明がマイノリティや弱者にとって非常に重要であることを明確に認識していた。マジョリティはあえてそのようなやり方を選ぶ必要がない。ミルはたとえ少数の意見表明であっても耳を傾けなければならない理由を、次の4点で説明した。

 「第一に、沈黙を強いられるすべての意見は、たとえ私たちが正確に知らなくても真理である可能性がある。第二に、沈黙を強いられる意見が間違っていたとしても、ある程度真理を含んでいる可能性がある。したがって、対立する意見をそのまま対立させることだけが、残りの真理を見つける唯一の方法だ。第三に、たとえ一般的な通念が全面的に正しいとしても、討論を通じて活発で真剣に争わなければ、それを受け入れる人々が合理的根拠を全く理解できないまま偏見に陥ってしまう恐れがある。第四に、そのような主張の意味が失われ衰退すると、人々の性格や行動に大きな影響を及ぼすことができず、心からの確信が育まれることを妨げる」

 自由な選挙で選ばれた政権が必ずしも民主的とは限らないことは、2000年代以降、世界各地で立証されている。なぜ保守政権が発足するたびに民主主義退行の懸念が高まっているのか、尹大統領は振り返ってほしい。度を越した警察の対応が来年の総選挙を狙った保守票の結集という政治的目的に沿ったものだとしても、少なくとも『自由論』に心酔した大統領ならば守るべき線は保つべきではなかろうか。

//ハンギョレ新聞社
パク・チャンス大記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1094641.html韓国語原文入力:2023-06-06 02:40
訳H.J

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