4月28日は、忠武公・李舜臣(イ・スンシン)の生誕477周年に当たる日だ。李舜臣が今日まで韓国国民から変わることなく尊敬される理由は、生前に軍人としてだけではなく、公職者として正義の人生と犠牲を自ら実践したからだ。特に、李舜臣の生涯のなかでも、白衣従軍の際に示した感動的な行跡が多く伝えられ、現在でもたびたび、「死のうと思えば生き、生きようと思えば死ぬ」(必死則生、必生則死)「軽々しく動くな。冷静に泰山のように断固として行動せよ」(勿令妄動、静重如山)「臣にはまだ12隻の船が残っております」(今臣戦船尚有十二)などの語録が活用されもする。
李舜臣が三道水軍統制使(水軍の総司令官)を罷免されて投獄され、官職のない最下位の軍人として戦地に赴き参戦する「白衣従軍」をすることになった理由として、丁酉再乱(慶長の役)の直前に朝廷からの出戦命令を拒否したという、いわゆる「李舜臣抗命説」が広く知られている。「宣祖修正実録」の1597年2月1日付にある「(李)舜臣は『海岸の道は険しく、外敵がおそらく伏兵を設置して待っているだろう。戦艦を多く出せば敵が知ることになり、少なく出せば逆に襲撃を受けるだろう』として、ついに(出戦命令を)挙行しなかった」という記録のためだ。これを根拠に「李舜臣抗命説」は既成事実化され、様々な歴史書や刊行物などで繰り返し引用され、今日に至っている。メディアもこれを再生産し、大衆は李舜臣を「国王宣祖の不当な命令を拒否した所信ある将帥」、または「戦時に国王の出戦命令を拒否した不名誉な指揮官」だと評価する。
はたして、これは事実なのだろうか。
かなり前から、軍事戦略家の間では、次の2点から李舜臣抗命説は納得しがたいという見解が提起されていた。絶対君主の時代に敵の侵攻を目前にした辺境の将帥が、国王の出戦命令をどうして拒否できるだろうか?また、戦いから退かないのが李舜臣の軍事戦略ではないのか?
筆者もまた、海軍初任将校の頃から李舜臣抗命説について合理的な疑問を持ち、10年ほど研究した結果を、李舜臣生誕記念日を機に昨年2回にわたって関連学会に論文を発表し、メディアにも公開した。宣祖実録と李舜臣の状啓(報告書)などをデータ化し集中分析した結果、李舜臣の丁酉再乱勃発直前の出戦拒否説の根拠になった宣祖修正実録1597年2月1日の記事について、間違いを発見して発表したのが一つ目の研究だ。さらに、二つ目の研究はそれを裏付ける検証作業の段階として進められた。
研究の過程で最も難しいのは、李舜臣の行跡を最もよく知ることができる丁酉再乱前後の乱中日記(李舜臣の日記)の記録が伝わっておらず、当時の宣祖の出戦命令を受けた李舜臣の行跡を明確に把握することが難しいという点だった。これについては、丁酉再乱の際に統制使であった李舜臣を直接指揮した四道都体察使(全国の諸将を監督する長官)の李元翼(イ・ウォニク)の状啓に注目した。四道都体察使の李元翼は、丁酉再乱の際に宣祖の命を受け、統制使の李舜臣と都元帥の権慄(クォン・ユル)までも指揮できる権限を有する朝廷の代行として、閑山島(ハンサンド)にいる李舜臣に会い、作戦計画を論じて協議し、水軍の作戦状況を随時朝廷に状啓で報告した。
幸いなことに、李元翼が残した史料をまとめ後世の人々が作った「梧里先生文集」には、丁酉再乱の前後に辺境の水軍と陸軍の指揮官に会って作戦を指揮をした内容を報告した貴重な状啓が含まれていた。李元翼の状啓は直接国王に宛てて書いた戦況報告書であり、当時の朝鮮水軍の作戦計画を知ることができる決定的な史料だ。梧里先生文集には、李元翼が丁酉再乱勃発の前に釜山(プサン)沖合に出兵するという李舜臣の作戦計画を、数回にわたり宣祖に報告した状啓が収録されていた。特に、丁酉再乱勃発初日の丁酉年(1597年)1月12日の状啓には「加徳島(カドクド)の東の海に進み停泊し、長所浦(チャンソポ)に陣を設けるか、あるいは多大浦(タデポ)の沖合に陣を張るなどして、機会が合えば戦う」という李舜臣の釜山出戦計画が明確に記録されている。
性分が素朴かつ単調で誇張や誇示とはかけ離れており、正義感が透徹した名臣である李元翼の状啓には、このような宣祖修正実録の記録とは正反対の内容が含まれている。これは、李舜臣の死後約60年後に完成した宣祖修正実録の記録が間違っていることを明確に示している。これにより、李舜臣の死後数百年のあいだ歪曲されて伝えられてきた出戦拒否説、いわゆる李舜臣抗命説の実体が明らかになったわけだ。李舜臣生誕477周年記念日を迎え、私たちが知らなかった李舜臣の歴史に新たにスポットライトが当たることを期待する。
コ・グァンソプ| 国立木浦海洋大学海軍士官学部教授・予備役海軍大佐 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )