2013年ごろ、私が好んで利用していたランド(rando)というアプリがあった。円形のフレームで写真を撮ると、その写真が世界のどこかへランダムに転送され、1枚を送ると世界のどこかから写真が1枚送られてくるアプリだった。チャットもできず、写真が撮られた地域だけが分かる単純な機能がすべてだった。北欧の果てから中東、アフリカ、南米まで、存在すら知らなかった地名から飛んでくる異国的な風景の写真(食べ物、動物、看板の文字など)を見ると本当に不思議で、世の中とつながっているような気がした。毎日どんな写真をもらえるかとわくわくした。
こうして人生の楽しみになってくれていたランドが、予告もなく突然サービスを停止した時、それこそ死んでしまった時、私はペットが前触れもなくいなくなってしまったかのような、大きな喪失感を感じた。悲しくて涙が出そうになった。ランドを失ってから、そのサービスをどれほど愛していたかを知った。私の周りにランドをやっている人はいなかったので、私は誰とも悲しみを分かち合えなかった。世界中で写真をやり取りしていたランドのユーザーたちも同じ気持ちだろうと想像するだけだった。
デジタル時代を生きる私たちは、人々との関係くらい、あるいはそれよりも多くの時間を、デジタルサービスとともに過ごす。映画『her/世界でひとつの彼女』で、OSと恋に落ちた主人公を、別れた妻は「あなたが本当の感情に耐えられないことがもどかしい」と言って理解できない。私はランドを失ってとても悲しかったので、人生の一部になってくれたものに愛着を持つこと、そしてそれを失った時に喪失感を感じることが理解できた。
日常において人々は、喪失を経験した時、葬儀のような儀式を行う。共に過ごした思い出を共有し、悲しみを分かち合い、慰め合うという、日常に戻る手続きと哀悼の文化がある。しかし、私は突然サービスが停止されたことについて、世界中のランドのユーザーと掲示板などに集って悲しみを分かち合うなどの、哀悼の過程を共にすることができなかった。
先日、「キム・ヨンハの本を読む時間」のポッドキャスト・サービスが中止されたことを知った。作家のキム・ヨンハさんが紹介してくれる小説と、彼の落ち着いた声がとても好きだったので、よく聞いていたのだが、もうその声を聞くことができないなんて悲しかった。しかし、ランドを失った時ほどではなかった。「本を読む時間」のフェイスブックページには、ポッドキャストを愛する人たちによる、終了を惜しむ書き込みがなされた。キム・ヨンハさんの声が眠れぬ夜にどれほど大きな慰めになってくれたか、散歩をしながら、論文を書きながら、共に過ごしたポッドキャストに対するそれぞれの思い出と感謝の言葉が続いた。喪失感もあったが、そのように愛情を告白し、経験を分かち合うことが共感と慰めになった。そして、ランドにもこのような場が設けられていたら、どれほど良かったことかと思った。
かなり多くのデジタルサービスが突然姿を消したり、終了したりする。愛情を持って多くの時間を費やしてプレイしたのにサービスが終了したオンラインゲーム、数年にわたり熱心に書いたダイアリーアプリ、多くの人々の思い出が詰まったサイワールドなど。あんなに愛情を持っていたものが消え去り、二度と見たり聞いたりできなくなった時、私たちはそれぞれ喪失を経験するが、デジタルサービスに対する哀悼文化がないために、適切にその喪失感を共有したり慰めの言葉を交わしたりすることもできない。ダイアリーアプリに数年間書きためた大切な記録がサービス終了で消えてしまったという話が、単なる個人のものになってはならない。制度的な観点だけでなく、文化が形成されたらと思う。サービスを提供する側は、責任感を持ってサービス終了を事前に知らせ、大切なデータをバックアップする時間を与えるべきだ。そしてやむを得ず終了することになった時、そのサービスに対する思い出と悲しみを分かち合える場を提供すべきだ。
チョン・デゴン|小説家・映画監督 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )