本文に移動

[ルポ]撤去危機の群馬「朝鮮人追悼碑」…「韓日友好20年の象徴、なぜなくすのか」

登録:2024-01-26 11:08 修正:2024-02-04 09:59
撤去を決定した群馬県に行ってみると
強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑を建て管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71)が24日、「群馬の森」公園にある追悼碑について説明している=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 今月24日に訪れた、群馬県高崎市にある「群馬の森」公園。東京ドームの5.6倍の広さで、群馬の市民の憩いの場であるこの公園は、「朝鮮人強制動員」問題を巡る群馬県と地域の市民団体間の衝突で微妙な緊張感に包まれていた。これを表わすかのように、裏門の前には「工事のため1月28日午後5時30分から2月12日午前8時まで公園を閉園する」という内容の案内板がぽつんと立てられていた。市民が頻繁に訪れる広々とした公園が2週間ちかく閉鎖されるという異例の状況を迎えることになったのだ。

 公園の裏門から入って3分ほど歩くと、2004年に群馬県と地域の市民団体が力を合わせてようやく作った「群馬県朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」が目に入った。群馬県は公園を閉鎖する期間に、建てられてから20年になるこの追悼碑を撤去する方針だ。日本全域に少なくとも150カ所以上の朝鮮人関連追悼碑があるが、地方自治体が直接撤去に出るのは今回が初めてだという。碑に刻まれた「記憶 反省 そして友好」という文字が悲しく見えた。

 この追悼碑を建てて管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71)は「県が撤去に使う重機を持ち込むために木を伐った。ここまでしなければならないのか、本当に怒りが湧く」と語った。追悼碑は直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に、横4.5メートル、縦1.95メートルの大きさの碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている。空にまっすぐ伸びている塔と後ろの碑石は、縦に大きな穴が空いている。石田さんは「この穴は朝鮮半島に向かっている。群馬で犠牲になった朝鮮人の魂だけでも故郷に帰れたら、という気持ちが込められたもの」だと述べ、「撤去の過程で追悼碑は壊されるだろう」と憂いを見せた。

群馬の市民の憩いの場である「群馬の森」公園の裏門前には「工事のため1月28日午後5時30分から2月12日午前8時まで公園を閉園する」という内容の案内板が立てられている。県はこの期間に朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑を撤去する方針だ=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 碑文には、日本が犯した植民地支配と侵略戦争を謝罪した「村山談話」(1995年)と、韓日関係の新しい道しるべとなった金大中(キム・デジュン)元大統領と小渕恵三元首相の「韓日パートナーシップ共同宣言」(1998年)の精神が反映されている。碑石の前面には「記憶 反省 そして友好」という文字がハングル・日本語・英語で書かれており、裏面には「かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し(中略)過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する」と書かれている。

 追悼碑が群馬県所有の公園に建てられることになったのは、29年前の1995年に遡る。日本敗戦50年を迎え、群馬の市民たちはこれまで放置されていた朝鮮人強制動員犠牲者などを調査するために「戦後50年を問う群馬市民行動委員会」を設立。群馬の鉱山や軍需工場などに朝鮮半島から強制的に動員された朝鮮人被害者は約6千人余りだと調査によって知られた。このうち300~500人余りが命を失ったと推定される。日本の市民たちは彼らの苦痛を悼み、未来に進むために追悼碑を「建てる会」を作った。在日コリアンも「総連」「民団」という分断と理念の壁を乗り越え、この運動に参加した。

強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑は、直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に横4.5メートル、縦1.95メートルの大きさの碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 追悼碑を作る過程は当然容易ではなかった。市民たちは碑文に「朝鮮から強制的に連行」、「過酷な労働と悲惨な生活環境」など、より明確な表現を入れたかった。保守色の濃い群馬県は容易に応じなかった。長い調整の末、現在の文言に決まった。韓日友好の堅固な土台となった村山談話と、群馬県出身の小渕元首相が築き上げた「韓日パートナーシップ共同宣言」が基本的な骨組みになった。2001年6月、県議会の満場一致の同意を得て、この碑の設立が決まった。その代わり、保守世論を考慮して碑の前で政治的行事は行わないことにした。市民たちは少しずつお金を集め、2004年4月、今の位置に碑を建てた。除幕式には県と県議会、日本市民、在日同胞が大勢参加した。

 撤去の論議が始まったのは、第2次安倍内閣が発足した2012年からだ。「新しい日本を考える群馬の会」などの右翼団体が、2004年の除幕式から毎年行われてきた追悼式の新聞記事を調べ、発言者の表現一つひとつを問題視した。例えば「戦争中に強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を記憶することが重要だ」などの発言が攻撃の的になった。右翼は「強制連行」は日本政府が認めていない内容だとし、追悼碑を作る際の「政治的行事を行わない」という約束を破ったと主張。そのため市民の会(「守る会」)は2013年から追悼式もできずにいる。2014年4月、「追悼碑10年許可」を延長しなければならない時期が近づくと、右翼はより露骨に動いた。

 東京都横網町公園にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」などの撤去を主張し続けてきた日本の右翼団体「そよ風」が提出した群馬県への追悼碑撤去請願を、2014年6月、自民党議員が多数だった県議会が採択する。待っていたかのように県は7月、追悼碑設置期間の延長不許可を決めた。その時から激しい法廷闘争が始まった。2018年の一審の前橋地裁では「守る会」が勝った。2021年、保守色の強い東京高裁で判決が覆された。市民の逆転敗訴だった。この判決は2022年の最高裁までそのまま維持された。県は昨年4月、追悼碑撤去命令を下すに至る。故・安倍元首相が始めた村山談話の毀損など「過去の歴史を消す」作業が日本最高裁の公認を受け、群馬県によって施行されているかたちだ。

強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑を建て管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の代表らが24日午後、群馬県庁の記者室で記者会見を行っている=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 「守る会」は最後まで抵抗している。追悼碑撤去命令に反発して取り消し訴訟を起こし、来月7日に最初の弁論期日が決まった。集会、記者会見、声明書発表などを行い、連日世論に訴えている。だが、県はものともせず、今月29日から来月11日までの間に撤去するという「代執行命令」を「守る会」に送った。撤去に必要な費用約3千万円を徴収すると圧力もかけている。

 「守る会」で法律対応を担当している下山順弁護士は「追悼碑の撤去命令の取り消しを求める訴訟の1次弁論が決まったにもかかわらず、県が撤去を強行するのは暴挙だ」とし「右翼団体の要求を受け入れて追悼碑が撤去されるのは歴史的な退行だ。これが成功事例になり、日本各地にある他の追悼碑も攻撃の対象になりうる」と批判した。

 韓日関係にも悪影響を及ぼすものとみられる。「守る会」の藤井保仁事務局長(74)は「この追悼碑は過去の歴史を反省する中で日韓の友好を約束したシンボル。群馬県がこれを壊すということだ。歴史は消したからといって消されるものではない。追悼碑が撤去されたとしても、守る会は最後まで活動する」と強調した。

高崎(群馬)/キム・ソヨン特派員

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1126005.html韓国語原文入力:2024-01-26 08:40
訳C.M

関連記事