「この雨は、原爆による受難の歴史を記憶し、犠牲となった同胞に深い哀悼の意を捧げようとする私たちの小さな印です」
6日午前10時40分、長崎の平和公園で、韓国人原爆犠牲者を悼む慰霊碑の除幕式が行われた。雨が降る悪天候にもかかわらず、カン・チャンイル駐日韓国大使、在日本大韓民国民団のヨ・ゴニ団長、平和活動支援センターの平野伸人所長ら、長崎だけでなく東京などから来た100人あまりの人々が参加した。韓国政府と民団が慰霊碑の建立を推進してから27年を経て成し遂げた成果に、皆が感激に浸っていた。広島には1970年に韓国人慰霊碑が建てられたが、長崎にはなかった。
慰霊碑建立委員長の民団長崎本部のカン・ソンチュン団長は、「韓国人同胞の手で、念願の慰霊碑を建てることになった」と述べ、「被爆の歴史を次世代に伝えるきっかけになることを望む」と語った。 原爆投下当時の長崎にいたクォン・スングムさん(95)も5日に韓国特派員団に会い、「嬉しくて感激している」と述べた。クォンさんは韓国人慰霊碑がない1960年代から、長崎市が主催する原爆犠牲者慰霊祭に韓服を着て参加していた。
石碑を建てるまで険しい過程があった。長崎市と石碑の大きさや文言の一つひとつについて、数年間にわたり対立した。結局、強制動員による韓国人原爆犠牲者の説明で「強制」という表現の代わりに「本人の意思に反して」という文言を入れることで妥協しなければならなかった。日本政府は違法な強制動員を認めていない。
今回建てられた韓国人慰霊碑は、悲劇的な歴史をそのまま記録している。太平洋戦争末期の1945年8月9日午前11時2分、長崎に投下された原爆により、そこに住んでいた約24万人のうち約7万4000人が亡くなった。日本人の次に被害が多かったのは朝鮮人だった。慰霊碑の案内文には「長崎市とその周辺地域に(朝鮮人)約3万5千人が居住し、数千人から1万人と推定される同胞たちも亡くなった」と記述されている。
日本による植民地時代、朝鮮人は長崎に集まっていた軍需工場や炭鉱などに大勢動員された。2001年に亡くなったソ・ジョンウさんも代表的な人物だ。1928年生まれのソンさんは、15歳の時に「軍艦島」と呼ばれた長崎の沖合にある端島の炭鉱に連れていかれ、過酷な労働に苦しんだ。体調が急激に悪くなり島の外に出ることなり、三菱造船所で働いていたときに被爆した。強制動員から被爆、朝鮮人差別までの“三重苦”に苦しんだソンさんは、自ら軍艦島で経験したことを世に伝えることに一生を捧げた。
実は長崎には、韓国に関係するもう一つの原爆犠牲者追悼碑がある。長崎での朝鮮人原爆死亡者が1万人であることを、1981年から資料や実地調査を通じて世に初めて知らしめた故・岡正治牧師と日本の市民たちが、1979年に「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」を建てた。彼らは毎年8月9日午前7時30分に追悼行事を行い、すでに42年目になる。今回建てられた韓国人慰霊碑から歩いて2~3分の距離にある。追悼碑には「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死した朝鮮人とその家族のために」という碑文が記されている。岡まさはる記念長崎平和資料館の新海智広副理事長は5日、本紙とのインタビューで「岡牧師を中心とする良心的な日本人たちが、贖罪の気持ちで募金運動を通じて追悼碑を建てた」と述べた。
しかし、追悼碑には「朝鮮人」と記され、在日朝鮮人総連合会に所属する人々が追悼行事に参加しており、民団中心の韓国人はこの追悼碑からは距離をとっていた。南北分断の対立は、“原爆による犠牲”という共通の痛みさえ、共に分かちあうことをできなくした。カン・ソンチュン団長は「戦争が終わり、すでに二つ(南北朝鮮)の国になっていたが、韓国人という表現がないなど、追悼行事に同胞が参加しにくい雰囲気だった」と述べた。これについて新海副理事長は「追悼碑に書かれた朝鮮人は、(日本による植民地時代)当時の表現を使ったものであり、北朝鮮を指すものではない」と説明した。ただし彼は「植民地も分断も、すべての原因は日本にある。私たちと時間が重ならなければ、来年から民団の追悼行事にも参加する考え」だと述べた。