登録 : 2015.10.24 02:18 修正 : 2015.10.24 06:49

美談「水兵の母」が収録された戦前の小学校5年用国語教科書。「君恩に報いよ」という母の手紙に涙をこぼした水兵の話だ。実際にはこの水兵は病弱な人物で、このエピソードを残した後ほどなくして鹿児島の故郷へ帰り、3年後に亡くなったことが確認されている=資料写真//ハンギョレ新聞社

1902年、教科書わいろ事件を活用し 
1945年まで国定教科書を使用 
石器時代でなく建国神話で始まり 
盲目的国家観で戦争を美化 
侵略戦争を“聖戦”と信じこませ 
日本を占領した連合軍司令部の 
最初の措置は既存教科書にあった 
戦争美談を墨で消せとの命令 
形ばかりの検定制という批判はあるが 
“国定化”は良くないという合意がある

■ねつ造された「水兵の母」

 国民を戦争に動員するために日本政府が最も心血を注いだのは「戦争美談」だった。 当時の小学校5年用国語教科書に収録された美談「水兵の母」を見よう。

 明治27~28年、戦争(日清戦争)が終わらんとしている時であった。ある日、軍艦高千穂の一水兵が手紙を読みながら泣いていた。通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ」と鋭く叱った。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。

 兵士の母親が送った手紙であった。「聞けば、そなたは豊島沖の海戦(忠清南道牙山近海で起きた日清戦争の緒戦)にも出でず、八月十日の威海衛攻撃(日清戦争で日本軍の勝利が事実上決定された戦闘)とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候」

 中内敏夫・一橋大学名誉教授は著書『軍国美談と教科書』(1988年)でこのエピソードに関して、「名も無き母子家庭の老母とその息子、このような家庭の母親が一人息子を国家のために喜んで差し出して、天皇の戦争に身を捧げるよう願っているという文は、軍の指揮部が見れば国民教育の絶好の素材になっただろう」と指摘した。しかしこの母子の現実は日本軍部が願った模範的モデルとは相当な乖離があった。 水兵の実際のモデルは、現実には病弱で豊島沖海戦が起きる前に船から下りるよう命令を受けたことがあり、エピソードが出た後にほどなくして人々の目を避けて鹿児島県の故郷へ帰り3年後に病死したためだ。

当時の軍国美談は現実を巧妙に歪曲したりねつ造したものが多かった。第1次上海事変の時に爆弾を担いで敵の鉄条網陣地に向かって肉弾攻撃を行ったと伝えられる肉弾三勇士の美談が代表的だ。日本の兵庫県のある神社に残っている肉弾三勇士関連絵画=資料写真//ハンギョレ新聞社

 当時の軍国美談の中では現実を巧妙に歪曲したりねつ造したという疑いが濃厚なものが多い。 最も代表的なものは第1次上海事変が進行中だった1932年2月22日、上海郊外の鉄条網陣地を破壊するために爆薬筒を持って肉弾攻撃を敢行した江下武二、北川丞、作江伊之助の3人の工兵を指す「肉弾3勇士」の美談だ。当時、日本のマスコミは作戦遂行のために命を捧げた三勇士を称賛する記事を書き立てたが、兵士たちが亡くなったのは死を覚悟した勇猛な作戦の結果ではなく、導火線の長さを誤って計算した“ミス”だったことを暗示する関係者の証言が出てきた。

 このような“神話ねつ造”は戦争を遂行した日本大本営の得意技だった。 大本営は特殊潜水艇に乗って1941年12月8日米国の真珠湾を攻撃した海軍の「九軍神」、日本軍として最初に守備隊全員が降参せずに決死抗戦し全員が死亡した「アッツ島玉砕」などを大々的に宣伝して戦争美化の道具として使った。 しかし九軍神の潜水艇は何ら軍事的成果を上げられなかった失敗した作戦であり、アッツ島の兵士は全員玉砕したのではなく一部は生き残り米軍の捕虜になったという事実が以後の研究と実態調査を通じて明らかになっている。 韓国で発見できる似た事例としては、1968年に「僕は共産党が嫌いです」という言葉を残して共産軍に殺害されたという「少年イ・スンボク」のエピソードが挙げられる。 このエピソードは永く国民学校道徳教科書に載り、その痕跡が今でも小学校の校庭の一画に放置された銅像として身近な所に残っている。

 日本の歴史教育が再び大転換することになった契機は1945年8月の敗戦だった。 戦争が終わった後、日本を占領した連合軍最高司令部(GHQ)は軍国主義的な教科書が日本を戦争の道に導いたという判断の下、どのように過去と断絶した新しい歴史教育を樹立するかを検討することになる。 占領軍が取った最初の措置は、既存の教科書から天照大神から始まる日本の建国神話や戦争美談を墨で消すよう命令することだった。 連合軍最高司令部は次に日本政府の介入を排除して民間学者が参加した新しい教科書の編纂に乗り出す。

 日本の歴史学者の家永三郎(1913~2002)ら4人の学者が東京大学史料編纂所に集結したのは1946年5月17日だった。 彼らは連合軍最高司令部所属の米軍将校とともに、特定のイデオロギーを宣伝しない▽軍国主義・超国家主義的神道教育をしない▽天皇の業績が歴史の全てではない▽経済・文化など民衆の歴史を扱う、という原則に則り、新しい小学校用歴史教科書『国のあゆみ』を執筆する。当時の作業の意味について、家永三郎は1977年に放送されたNHK特集ドキュメンタリー「戦後教育の開始」で「不十分な教科書だったが、日本の歴史が神の降臨ではなく石器時代から始まるように変わったのは大きな意味があることだった」という証言を残している。 以後、日本は1948年に教科書検定制を復活させ、本格的な戦後歴史教育を始めることになる。

■歪曲教科書採択率が6.4%まで上がる

 それから60年余りの歳月が流れた今、日本の検定制は再び大きな危機に直面している。 2012年12月に登場した安倍晋三政権が、教科書の執筆と検定の基準になる学習指導要領解説書や教科書検定基準などを詳細化し、各出版社が教科書にどのような内容を入れるかを逐一定めているためだ。 そのため日本の市民団体は現在の教科書検定制について「形だけの検定であり事実上の国定制」と批判している。 その上、安倍政権は日本の侵略戦争を美化する育鵬社教科書など歴史わい曲教科書が一線の学校でより多く採択されるよう種々の支援を惜しまない。 それによって2001年に登場した歴史歪曲教科書は、2016年から使われる中学校教科書基準で採択率が6.4%まで上がっている。

 それでも日本では、韓国の朴槿恵政権のように戦争前のような国定制に回帰しようとする動きはない。 過去の歴史の悲劇を通じて“越えてはならない一線”に対する社会的合意が存在するためだ。 かつての日本の教科書の問題点を指摘したが、維新時期の韓国の国定教科書も盲目的な愛国心と反共主義を強調したという点で特に変わりはないと言えるだろう。 歴史は朴槿恵政権の今回の措置をどのように記憶するだろうか。 時代に逆行する韓国政府の国定化の試みは成功できるだろうか。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-10-23 20:31
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/714283.html 訳J.S(3427字)

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