泣き叫ぶガザ
19日午後11時、パレスチナ ガザ地区北部のイスラエル境界隣接地域であるベイト・ハーヌーン。 電話が鳴った。「まもなくベイト・ハーヌーンでイスラエル軍の軍事作戦がある予定なので待避しなさい。」あらかじめ録音されたイスラエルの警告メッセージが流れた。電話を受けたイズマイルは、夫と息子8人に娘6人と共に急いで簡単に荷物をまとめ家を出た。さほど遠くないところから聞こえてくる爆発音に驚いて、約4km離れたベイト・ラーヒヤーに最近設けられた待避所へ向かった。 まっ暗な道を1時間半かけて歩かなければならなかった。 あたふたと家を出たため、9才の娘アシルのおもちゃも持って来る余裕がなかった。 アシルは待避所の生活が苦しくて退屈で、しばしばだだをこねる。
18日まで3万人だったパレスチナ難民
週末の空襲後、3日間で三倍に
簡単な荷物だけ持って脱出し
学校など69ヶ所に急いで避難
電気は途絶え、制限給水など状況‘劣悪’
国連旗が立っているにもかかわらず、すぐそばで銃声
しばし爆撃が静かになった21日午前、イズマイルと夫は必要な物を取りに家に戻ったが、手ぶらで帰ってきた。 家は爆撃で破壊されていた。 持って来れるものは何もなかった。 急いで避難していなければ…考えただけでもぞっとする。
ガザ地区の待避所はどこも避難民ですでに飽和状態だ。 イスラエルの侵攻によりガザ地区ですでに10万人の難民が発生したと国連パレスチナ難民救護機構(UNRWA)は推算する。 去る18日までは3万人程度だったが、週末にイスラエル軍が文字通りの無差別空襲と砲撃を浴びせたため、3日間で難民が三倍以上に増えた。 22日までに死亡者数は600人に迫り、待避所に避難してくるおびえた難民の行列は急激に増加している。 ある家族は爆撃を受けるかと思い家を出たし、ある家族は家がすでに爆撃で家が壊され避難所に来た。
難民は69ヶ所の学校施設などに待避中だ。難民が増えて待避所の状況はますます劣悪になっている。 21日に訪ねたベイト・ラーヒヤー待避所の場合、小さな教室一つに40人余りが一緒に寝なければならない。 冷房は誰も期待すらしていない。 電気は全く使えない。 今はイスラムの断食月(ラマダン)なので、日の出前と日没後だけに食事ができるため、朝から夕方まで水一杯飲まずに耐えている。 だが日没後に国連から配給される食事の量は全く不足している。 水も国連で制限給水している。
再び家を訪ねて行くことは‘冒険’だ。 小学校に待避したが、必要な物を取りに家に戻った夫婦が、去る20日のイスラエル軍による爆撃で亡くなった。 3人の息子と4人の娘の両親だった。
避難民「休戦より自由が来るまで戦わなければならない」
難民たちは国連旗が掲げられた学校などに待避しているが、こちらでさえも安全だとは言えない。 数分間隔で爆発音が施設を揺るがし、子供たちは発作を起こしたように驚いて泣く。 だが、イスラエルの無差別空襲にさらされた住民たちが、身を寄せられる所は他にない。 難民は昼には病院などを訪ね知り合いの安否を調べ、夜には待避所で眠りを誘う。
今も簡単な家財道具と水を持って到着する家族がいる。 二日前にイスラエルの警告電話を受けたが、砲撃が激しくてとうてい外には出られなかったという。 家の近所に落ちる砲弾の轟音を聞いて恐怖に震え、爆撃が静かになった合間を利用してようやく脱出したわけだ。
この家族の母親シアム(58)に‘休戦になって欲しいか’と尋ねた。彼女は「パレスチナに自由が来るまでイスラエルと戦わなければならない」と答えた。 辛くはないかと尋ねると「数年間苦労して自由が来るならば、苦労は厭わない。 どうせ普段からイスラエルの封鎖政策のために働き口もない」と話した。 窓に鉄格子がないだけで監獄と変わらない所に閉じ込められて、いつでも無差別暴力にさらされて生きなければならない人生が母親を強くしたようだ。
待避所の運動場でバスケットボールをしていた二人の少年にも‘休戦になって欲しいか’と尋ねた。 16才の二人の返事は正反対だった。 モハメドはこのような状況が繰り返されることにはとても疲れたし、罪のない人々が死ぬことが残念だから休戦を望むと答え、モサブはイスラエルを「無慈悲なテロリスト」だとし、最後まで戦うべきだと答えた。
学校の遊び場がそれでも避難してきた子供たちの慰めになっている。 特別な遊具もないが、子供たちは明るく安全ネットに入って走りまわっていた。 ネットの中で遊んでいる子供たち…。 ガザ地区を取り囲む障壁内に閉じ込められて暮らし、イスラエルの空襲で家まで失い、一層狭い障壁の中に入らなければならない人々…。 走り回る子供たちを見て、心はさらに重くなった。
ガザ地区/キム・サンフン江原大教授