[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀VS正義の未来] 独裁とクーデターで自由主義の原理を裏切った自称自由主義者が主張する自由民主主義(5007字)
"私たち韓国人は自由民であり、死んでも他人の奴隷民とはならないという決心を血戦の場に出て最初から最後まで表明してきました。我が国の平民と軍人が各々持てるものをすべて使って世界中のすべての自由民の敵と心を一つにし今日まで戦ってきたのです。" (李承晩)
"私たちは侵略者をはね除け国土を統一し、自由大韓を建設する権利があるということを全世界に厳粛に宣言する。"(‘38度線停戦案に絶対反対する’)
"自由と民主主義を守護し人類共通の敵である共産主義の世界赤化の野望は粉砕し世界自由人類の平和を成し遂げなければならない我々の将来にはまだ数多くの難関と試練が横たわっています。" (朴正熙)
←去る10月28日午後、ソウル、中区(チュング)、筆洞(ピルトン)の4・19革命記念図書館で‘2011自由民主主義討論会’が開かれた。‘韓国の自由民主主義理論、憲法、歴史’を主題にした保守と進歩学界の討論で、パク・ミョンニム延世(ヨンセ)大教授(右から三人目)が発表している。 <ハンギョレ>リュ・ウジョン記者
維新憲法が強調した‘自由民主的基本秩序’
2009年8月、教科書検定申請を3ヶ月後に控えて李明博政府はニューライト側の主張を受け入れ‘歴史教科書執筆基準(案)’を新しく発表し、2010年にはすでに検定を通過した歴史教科書をわずか一ヶ月で‘韓国史’に書きなおして使うようにした。2011年教育課程では去る8月9日、改正教育課程を確定告示した。 そして今回告示された改正教育課程には委員会で議論されたこともない内容を追加した。民主主義という用語を自由民主主義に統一するよう告示したのだ。 そして時ならぬ自由民主主義か民主主義かという論難がおきた。‘歴史教育課程推進委員会’という組織が教育課程にいちいち介入して国家機構である国史編纂委員会が教育課程開発、執筆基準作成、検定までを主導するようにし事実上 政権の影響が歴史教科書の内容まで支配することになった。既存教科書の内容修正のために自由民主主義精神とは距離が遠いクーデター的な方式が適用された。
彼らはなぜこのように強迫観念に近いほど自由民主主義に固執し権力をふりかざし押しつけるのか? 彼らは「大韓民国の歴史を叙述するにあたって自由民主主義の価値を離れては叙述できない。 …一つであった韓半島の北部に不法的に人民民主主義政権を創り出し、国連が認めた韓半島唯一の合法政府である大韓民国を侵略し、今日まで持続的に威嚇しているためだ」(クォン・ヒヨン)とその理由を主張する。すなわち、大韓民国は人類の普遍的価値である自由と民主主義を原則的に放棄したことがなく、李承晩・朴正熙・全斗煥が独裁をしたとは言え自由民主主義を否定しはしなかったし、単に権力構造の側面だけで一時的に自由の原則を制限したことがあるだけなので、結局北韓の人民民主主義に反対し、それに対する韓国の体制優越性を強調するために自由民主主義を教科書に入れなければならないということだ。
維新憲法の前文には、我が国の憲法史上初めて‘自由民主的基本秩序’という内容が盛り込まれた。ところで維新体制こそが私たちの現代史で表現と結社の自由、法治、三権分立を最も深刻に制限し捏造スパイ事件など国家が事実上犯罪を行った時期であった。 ところが維新憲法がこのように国家を神聖視し個人の自由と自由民主主義原則を最も無視しても‘自由民主的基本秩序’という内容を憲法に入れた事実こそが今日、民主主義の代わりに自由民主主義を教科書に入れようという主張をする人々の論理を理解する上で重要だ。すなわち維新憲法の自由民主的基本秩序は‘自由+民主’ではなく‘自由民主’であり、より正確に言えば‘自由’(民主)だ。この‘自由’(民主)は共産独裁は排撃するが反共独裁と資本独裁、一歩進んでファシズムまでも容認する余地を残す。
李承晩と自由党、天皇制の赤子たち
もちろんこの思想の元祖は米国だ。米国史上最も尊敬を受ける大統領に属するウッドロー・ウィルソンとヘリー・トルーマンは民主政部と自由な社会という理想を前面に掲げ、それを享受できない国々、特にウィルソン時代のドイツ、トルーマン時代のソ連共産主義独裁の鎖から人民を解放しなければならないと説明した。そして彼らは自由な社会を建設しなければならないという理念を道徳あるいは正義の談論にまで昇格させた。彼らにとって自由と市場経済は道徳的、一歩進んで宗教的含意まで持つ。ところでウィルソンの‘自由’は事実上帝国主義国家の自由であることがすでに判明している。 彼の民族自決は植民地朝鮮には適用されえない強者の論理であった。トルーマンの‘自由’も同じだった。 彼は韓国戦争に対しこういう観点で接近した。トルーマンにとって韓国戦争は自由世界と共産奴隷との闘争だった。すなわちトルーマンと米国にとって自由世界は善の世界・文明世界であり、共産主義は悪の世界・野蛮の世界であった。 彼にとっては韓国と同じように植民地を体験した国が市場経済だけを維持するならば‘自由’の名の下に進行されたかつての帝国主義ファシズム勢力(親日派)の復活、反人権的な植民地的警察統治の復活、軍と警察の露骨暴力と虐殺が起きても知ったことではなかった。
ここで私たちは李承晩がウィルソンの弟子であり、トルーマンの後盾の下で韓国戦争を戦ったという事実を念頭に置かなければならない。ウィルソンとトルーマンの普遍主義は、まさに李承晩の‘自由世界’観念に最も大きな影響を与えた。それで李承晩にとって‘自由’と‘独立’は共産主義からの自由と独立だった。それで自身の永久執権と政敵弾圧のための臨時首都 釜山での非常戒厳宣言、戦時の名の下に疑わしい人をむやみに捕まえほとんど裁判もなしに殺すことができた特別措置令、民間人を軍人として取り扱い拘束できた国防警備法、人民軍賦役者と名指しされた人を法手続きも経ずに逮捕し処刑した収復後の地獄のようだったソウルが、避難民の生命と財産が外国軍である米軍の無差別的暴力と恣意的作戦決定により一日で灰燼に帰したこの土地が彼らにとっては‘自由世界’であった。
“自由大韓の青い空には/ナベ鶴が/ひらひら飛ぶよ/踊るよ/どれくこがれた自由だったの/私たちは今、自由を取り戻したよ/人が享受できる自由を持ったよ。”(パク・ジョンファ、‘雲の上にそっと載せて’)
第1共和国の自由は資本主義市場経済を基礎とするが、警察の専制政治、右翼青年団の拷問とテロを伴った。それで、ありとあらゆる不正選挙と腐敗を犯し、幼い学生たちに銃刀を突きつけた集団がまさに李承晩の手足‘自由党’だった。日本の‘自由民主党’と同じように、韓国の自由党は民主主義と自由を犠牲にしても国家権力の個人に対する優位を前面に掲げた天皇制の赤子だった。 今日、日本の極右歴史学者が天皇制の戦争犯罪を隠し隣国侵略の事実を否認し自身を‘自由主義史観’だと自称しているのも偶然ではない。イ・スンマンと自由党、自民党と自由主義史観は事実上、米国が作った自由世界の一員であり私有財産批判を大逆罪として取り扱った天皇制の赤子らであるわけだ。
←維新憲法前文には大韓民国の憲法史上初めて‘自由民主的基本秩序’という内容が盛り込まれた。1972年12月、維新クーデターで長期執権の道を開いた朴正熙大統領が国民会議の投票を経て事実上の‘総統’に就任している。 ハンギョレ資料
維新クーデターを北に先に知らせた朴正熙
だからパク・チョンヒが国会議員の3分の2選出を除くほとんどすべての手順的民主主義を終息させる維新憲法を通過させ、それも統一のためだという偽りの名分を突きつけ国民をほとんど脅迫し90%以上の支持で通過させ、緊急措置という初の大統領命令を法に代えた時期を‘自由民主的基本秩序’と強弁したのは李承晩が話した‘自由’のリフレーンにあたり、ひいては彼が日本の明治維新と朝鮮総督府統治下の戦時動員体制と抑圧を韓国に再び実践した張本人であることを自ら告白したことであった。報道機関と思想の自由を抑圧し国民皆に思想的純潔性を強要し、国家に対する一方的忠誠を強調した天皇制ファシズムの後継者が自身が共産主義を反対するという理由だけで‘自由民主的秩序’の守護者になったわけだ。 李承晩の戒厳令と同じように、朴正熙の緊急措置は国家の緊急権行使、すなわち個人の自由をほとんど無制限に統制したが、この自由の制限こそがまさに‘自由’の名で施行される逆説が発生した形だった。その結果、李承晩政権に反対した幼い学生たちが自由党と反共連盟を炎上させる事件が発生し、朴正熙の緊急措置を「我が国の歴史上最も残酷な人権蹂躪」「自由民主主義蹂躪」として攻撃した宗教家が良心宣言をすることになった。
仮に百歩譲って李承晩が話した自由とパク・チョンヒが話した‘自由民主的基本秩序’が反共あるいは国家抑圧正当化の論理だけを意味するものではないとするならば、彼らはファシズムに明白に反対するという点を法と手続き、行政執行で明示しなければならず、国民、国家そして民族の立場でそれを裏切った者を厳格に処罰するという内容が含まれていなければならない。ところが李承晩政権以後、現在に至るまで、クーデターを露骨に扇動する発言をしたり、街頭で民主主義を叫ぶデモ隊にテロを行使する極右勢力に対して‘自由民主的’憲法精神と各種刑法を適用し処罰した前例はない。李承晩と朴正熙は国民に対するテロを自由の名で美化することにとどまらず、他国である米国の韓国国民に対する犯罪をほとんど無条件的に受け入れてきたし、朴正熙の場合には国家保安法に違反し北韓当局と秘密裏に交渉をしたし、国家の機密事項まで国家保安法上の利敵団体である北韓に先に通告してあげた。維新クーデターを米国より北韓に先に知らせる反国家的措置まで取ったのだ(パク・ミョンニム、‘朴正熙時期の憲法精神と内容の再解釈’、<歴史批評>、2011年秋)。
ここに過去の李承晩と朴正熙、そして今日 教科書に自由民主主義を載せようと主張するニューライトの素顔があらわれる。冷戦時期、自由主義に対してアンソニ ブラスターは「今日、自由主義者は革命家 あるいは革命に同調する者どもというよりは反革命家である可能性がより高い。自由主義は保守主義に近づいた」と話したことがある。かつてロシアの思想家アレクサンドル ゲルツェンは韓国の将来を予想したかのように「自由主義者は自由を望む。そして彼らは自身が受け入れる範囲という共和国も望む。彼らの穏健な範囲を越えれば、彼らは保守主義者となる。彼らは幸せなことに革命という観念を楽しむ。しかし彼らは1848年人民暴動の狂風の前で恐怖に震え後退した。そして彼らの兄弟らから文明と秩序を守るために戒厳令の銃剣の後に隠れた」と説明した。
強者の自由、大資本の自由
事実、共産主義に恐れを抱いた1945~60年の期間のように、自由主義者を自任する人々が彼ら自身の原理をそれほどまでに卑劣に裏切ったケースは殆どなかった。ところが韓国では1987年まで、いや2011年ぼ今日この時点まで自由主義者を自任する人々が自身の原理を卑劣に裏切っても恥じようとはしない。韓国の自称自由主義者はただ強者の自由、大資本の自由を前面に掲げるファシストか天皇制ファシズムの後えいだと攻撃すれば、どのように反論できるだろうか? 韓国の‘自由(民主)主義’という自由を叫んだ人々に銃剣を突きつけた自由(民主)主義であった。 今日も彼らは手続きと法を守ろうという人々の前に拳を誇示して脅しをかけている。 お前たちは人民民主主義者じゃないのかと。
聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授