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[ハンギョレ21 2011.05.24.第862号]軍隊を拒否した勇敢な臆病者たち

良心的兵役拒否が公論化され10年、拒否者51人の七色の良心を振り返る
——軍事主義とは相容れない、か細い心で監獄を選択する、勇気ある人々


▲性的少数者、兵役拒否者のイ・ジョンシクさんは、出所してから5日経った5月13日、ソウル・汝矣島の国会前で、兵役拒否権認定を求める1人デモを起こした。約50人が参加した兵役拒否運動10周年リレー1人デモは、5月2~13日、国会、憲法裁判所、国防部の前で行われた。


いつかこんな文章を書いたことがある。「人類60億人には60億個の良心がある」


ここでいう良心とは「内面の真摯な声」のことであり、善悪の区別は脇に置いておく。兵役拒否者の絶対多数を占める「エホバの証人」の統計情報によれば、韓国では朝鮮戦争が勃発した1950年以来、現在まで1万6013人の良心的兵役拒否者が3万779年を刑務所で過ごした。2001~2010年、4185人の兵役拒否者が6473年の監獄生活をしており、2011年3月現在、819人の兵役拒否者が監獄に閉じこめられている。兵役拒否の歴史は半世紀を超えたが、兵役拒否が公論化されてから今年で10年である。2001年12月、浄土会[仏教系社会団体]の活動家オ・テヤンさんが兵役拒否を宣言し、『ハンギョレ21』の報道をきっかけに議論が高まった。以後、10年の間に51人が、兵役拒否者と支援者の会「戦争のない世界」とともに、兵役を拒否した。彼らの他にも、近年兵役を拒否したカン・ウィソクさんらや、社会に宣言することなく静かに監獄を選んだ「名もない拒否者たち」もいる。5月15日、「世界の兵役拒否者の日」にあたり、「戦争のない世界」を中心に、平和・人権団体が一緒に「2011世界の兵役拒否者の日準備チーム」が1人デモを繰り広げ、「平和の広場」を開いた。ここで出会った人々の話を聞き、彼らが書いた文章を読んだ。誰が兵役拒否をするのかを見ると、逆に、軍隊が誰を排除し、誰が軍隊と相容れないかがわかる。
 

弱いのが平和だ


「軍隊は強いです。私は弱いです」


5月2日、リレー1人デモ初日、ソウル斉洞にある憲法裁判所の前に立ったイ・ジュンギュさんはプラカードに自ら「弱い」と書いた。この日が入営日だったイさんの文句は「銃の強さではなく、他人の平和を見ている弱さが平和をもたらします」と続く。彼に尋ねた。「参加している運動団体はありますか?」「別にないですよ」、大邱から来た青年は、物静かに一人で兵役拒否を決意した。彼の兵役拒否は、暴力の経験に始まっている。


「殴らない先生になる」と選んだ教育大学で、教授に頬を叩かれた。授業時間に起こったことだ。教授は何の処分も受けていない。大学の文化も暴力的だった。復学生や学生軍事教育団を中心にした「男の団結大会」を拒否した。彼は兵役拒否の宣言書に「先輩後輩間の関係を深めるという名目の下、先輩の権力を確認する行事」と書いた。彼は加害者としての記憶も告白している。当時、恋人は唯一の慰めだった。「別れようと言われた私は、そばにもう誰もいないという絶望感で、彼女の頬を殴りました」。今も目を閉じれば加害と被害の記憶が彼を苦しめる。「目を閉じれば、教授に暴行を受けた左の頬と太ももは、硬い石のように感じられ、暴行をした右手には血がいっぱいついているように見える」。こんな彼は銃を持った自分を到底許す自信がない。


兵役拒否者イム・ジェソンさんは自著『こらえなければならなかった平和の言語』(グリーンビー刊)にこう書いた。「韓国の兵役拒否者の場合でも、監獄行きを甘受しながらも軍事訓練を拒否する理由は、強い信念のためであるように描かれてきた。しかし、彼らの言語を見ると、戦争と軍事訓練、男性性と位階秩序の暴力に同化する、または耐える自信がないという恐怖をしばしば確認することができる」。51人の兵役拒否の宣言書でも、恐ろしい暴力の経験は、頻繁に出てくる。2005年4月、兵役を拒否したチョジョン・ウィミンさんは「男性中心の暴力的な軍事文化は……家族でも、やはり避けることのできない暴力を生み出していました」と書いた。家庭内暴力を見て「無気力に部屋に隠れて泣くしかなかった」少年は、暴力を拒否する青年になった。彼は兵役を拒否する前に、校内暴力を扱ったドキュメンタリーを作った。


憲法裁判所には苦痛の記憶を和らげるチャンスがある。現在、憲法裁判所では、兵役拒否者を処罰する兵役法88条1項と郷土予備軍設置法15条8項に対して6件の違憲法律審判が提訴されている。すでに憲法裁判所は2004年、兵役法88条1項に合憲判決を下したが、事実上国会に代替服務制の導入を勧告した。
 

▲リレー1人デモ初日の5月2日、入隊日だったイ・ジュンギュさんは兵役拒否を宣言し、ソウル斉洞憲法裁判所の前で1人デモをした。彼は「弱さが平和をもたらす」とプラカードに書いている。


少数者の名として拒否する


リレー1人デモの最後の日である5月13日、ソウル汝矣島の国会前でイ・ジョンシクさんがプラカードを持った。兵役拒否で収監され、5日前に出所したイさんの髪は短かった。彼は「性的少数者として、軍隊はとても人権が守られないところであり、兵役を拒否した」と話した。2003年7月のイム・テフンさんを始めとする性的少数者の兵役拒否者は4人だ。彼らは「性別」で収監された刑務所で、格別の苦しみを経る。イさんも、看守によりアウティング(当事者の意思を無視して、他人が性的アイデンティティを知らせる行為)された経験がある。2006年3月に兵役拒否を宣言したユジョン・ミンソクさんは、現役の戦闘警察[機動隊]員だった。彼は「テロ鎮圧訓練を受ける日が決まれば、数日前から寝付けない」心の持ち主だ。到底耐えられない彼が兵役を拒否する意思を明らかにすると、部隊では疾病による除隊を提案した。裁判でも実刑ではなく、執行猶予を宣告した。「性同一性障害」の診断書を提出すれば兵役が免除されるからだ。しかし、彼は「魅力的な不正解」を拒否した。自分の兵役拒否宣言書の題のように、「意気地がなく弱々しい私の中の女戦士は兵役を拒否」する勇気を出したのだ。51人の良心が異なるように、皆がこのような感情をもつのではない。しかし、少なくとも兵役拒否者の一部は、ユジョン・ミンソクさんの文章のように、「人を殺す練習をする必要があるシミュレーションの軍事訓練でさえ、手が震える」人々だ。冨山一郎の『暴力の予感』には、「暴力を予感した者は、預言者でも、英雄でもない。それに敏感であるほかなかった、弱虫の身体を持つ者である」という一節がある。男性中心の視線で、彼らは弱虫かもしれないが、良心を守るために監獄を避けない勇敢な反対論者でもある。


性少数者でなくても、軍の性別分立の問題を提起する人々もある。2006年7月、兵役拒否を宣言したパク・チョルさんは宣言書に「『軍隊』と関係を結び始め、誰かが『男』や『女』に分類される瞬間が、居心地が悪い」と書いた。2010年11月に兵役を拒否したイ・テジュンさんも「正常男性イデオロギー」を批判した。


障害者差別を強化する軍隊を、拒否する人々もいる。2008年11月に兵役拒否を宣言した障害者権利活動家クォン・スヌクさんは、「障害者問題の核心は、軍隊が兵役の義務を課す『身体の健康な男性』の正常性の規定と一致しています」と明らかにした。忠清北道清州で、障害者の権利運動をしていたムン・サンヒョンさんも2005年6月、兵役を拒否した。


この日プラカードを持ったイ・ジョンシクさんの後ろにある国会は、憲法裁判所の立法勧告を8年も黙殺している。2004年当時、イム・ジョンイン開かれたウリ党議員、ノ・フェチャン民主労働党議員がそれぞれ発議した代替服務法案は、国会本会議に提出すらされなかった。


大秋里とイラクの名のもとで


5月15日午前11時、ソウル龍山国防部の前に自転車が集まってきた。この日、世界の兵役拒否者の日の行事に参加する人々だ。7歳のスンハンと12歳のスンユンが国際アムネスティ韓国支部室長である父パク・オクさんと一緒に自転車の行進に参加した。江華島から来た高校生は兵役拒否をしようか悩んでいると答えた。彼らは、国防部の前で身体で一緒に「PEACE」を作るパフォーマンスを繰り広げた。まさにここで、昨年12月14日、ムン・ミョンジンさんは兵役拒否を宣言した。延坪島砲撃事件(11月23日)が起きてから一ヵ月も経っていない時である。彼の兵役拒否宣言書には、過去10年の「戦争と平和」がある。「兵役拒否をずっと悩んでいた私は、米軍基地拡張移転反対闘争が起きた2006年、平沢市大秋里(テチュリ)での一連の事件を経験し、兵役拒否に対する確信を持つようになりました。……『黎明のファンセウル』作戦が始まった5月4日早朝の大秋里で、私は軍隊と警察の無慈悲な暴力を目の前で見ました」と書いた。このように、国家暴力の体験は、彼らに兵役拒否の信念を植えつけた。51人の兵役拒否の宣言書に「大秋里」は「イラク」とともによく登場する単語だ。


▲5月15日世界の兵役拒否者の日の行事は、国防部の前で、参加者が身体で「PEACE」を書くパフォーマンスで始まった。


「イラク反戦平和チーム」として、2003年3月にイラクに行ったウングクさんも2009年2月に兵役を拒否した。彼にとって米国の宣戦布告後にバグダッドを去ることは、「恥ずかしい記憶」として残っている。「私は逃げて出てきたが、逃げ出ることができなかった人々が死んでいった。誰もが虐殺を止めることができず、さらには韓国軍のイラク派兵さえ防ぐことができなかった。……その時私は心に決めた。この戦犯国で兵役につかないと」。2003年5月、パレスチナで彼はパスポートを出せと銃を突きつけるイスラエル軍兵士たちに遭遇した。ウングクさんは「装填された銃を向けられたことがあるか? それは小便を漏らし全身が凍りつき呼吸困難になる恐怖だった」と覚えている。


行政府である国防省は、立法府である国会、司法府である憲法裁判所とともに、三権分立ではなく、三権同盟を構築し、兵役拒否者の人権を遮る嘆きの壁となった。国防部は2007年9月に代替服務制度の導入計画を明らかにしたが、李明博政権が発足した2008年、世論を理由に導入を白紙撤回した。5月15日のキャンペーンが、国防部の前で始まった理由だ。自転車の行進は「あなたの平和が私を呼ぶ時」という旗を掲げ、国防部の前を去った。


散漫なのが平和だ


5月15日昼1時、ソウルの大学路にあるマロニエ公園に自転車の行列が到着した。先に来て、平和の広場を準備した彼らは、収監中の兵役拒否者を発表するプラカードを公園に立てていた。2009年11月に兵役を拒否したヒョンミンさんの写真もあった。ヒョンミンさんにとってマロニエ公園は、格別の場所だ。「ふわふわとした大学1年のころ、男性性の不在に悩み、同時期に行われた兵役拒否運動に胸がドキドキしたがある。マロニエ公園の前で配る資料集を読んで涙がぽろぽろと溢れ出た記憶が思い浮かぶ」。彼の兵役拒否理由書の一部だ。このように彼は20代ずっと兵役拒否を悩んでいたが、「私にはキーワードがないようだ」と書いた。「カトリックの洗礼名があるが、教会に通っていない。団体に属してもいない。……平和を愛するよりも、ただ争うことができないようだ。……後援会のカフェに大学の同級生が『平和の花』になれと書いたのですが、私は『花』よりは『花美男[美男子]』になりたいという欲望の方がはるかに大きい。役に立たない奴が分断国家に生まれ、分もわきまえないから、悪口を言われるんだなと思う」。こんな素直な青年は、「しかし、このような境界を越えてヘンテコなやり方で咲くのがあってもいいんじゃないか」と書いた。


平和の広場は歌や話が途絶えることがなかった。兵役拒否運動の長年の友人である歌手チョ・ヤッコルさんは、「私も10年前にアフガニスタン侵攻に反対するデモをし、平和運動を始めた」と、「愛国者がいない世界」を歌った。故権正生(クォン・ジョンセン)先生[童話作家]の文にチョ・ヤッコルが曲をつけた歌は「この世界のどの国でも、愛国愛族者がいなければ~世界は平和なのだ~若者たちは国のために同族のために銃を担いで戦場に行かないだろうし~国防の義務のようなのも軍隊の訓練所のようなものもないだろうし~」と続く。


この日、人々の前に立ったイ・ジュンギュさんは「最も誇らしく恨めしく後悔する日々が、兵役拒否以後だった」と目頭を赤くした。平和の広場に長く参加してきた司会者アチム[朝]がこの行事に初めて参加したもう一人の司会者に尋ねた。「今日はどうでしたか?」「散漫でした。散漫なのが平和でしょ」
 

▲自転車で行進し到着したソウルマロニエ公園のあちこちで、平和の広場が始まった。


代替服務制、古い未来


5月16日午前11時、ソウル通仁洞の参与連帯ヌティナムホールにナ・ドンヒョク、ヨム・チャングンなど「古参の」兵役拒否者たちが集まった。この日、兵役拒否権連帯会議は、憲法裁判所の「代替服務制立法府作為の違憲確認訴訟」を起こす記者会見を開いた。オ・ジェチャン「民主社会のための弁護士の会」国際連帯委員長は、「2004年に憲法裁判所が、国会に代替服務制の立法を勧告したが、国会では未だに法を作っていない」と述べ、「立法の義務を放棄する国会のせいで侵害された兵役拒否者の基本的権利を確認せよという訴訟である」と明らかにした。国内のすべての法的手続きを終え、国連に個人嘆願書を出し、2010年に個人通報を受けた11人の兵役拒否者が訴訟の当事者だ。国連自由権規約委員会は、韓国政府が加入した自由権規約に違反し、兵役拒否者の人権を侵害したため、彼らの補償を含む救済措置と再発防止の対策をせよと勧告した。しかし、韓国政府は黙殺している。


「立法不作為違憲訴訟」は、最後の手段に近い。すでに兵役拒否者の人権を保障せよとの要求が国内外で出され、法的な手段も可能な限り講じてきた。この日の記者会見に参加した兵役拒否者のほとんどは、10年の歳月を共にしてきた。いつの間にか彼らも30の境界を越えた。この日の記者会見に参加したヨム・チャングンさんのようにある人は平和活動家として、ある人は生活者として生きている。この日の記者会見に忙しくて来られなかった人々もいる。オ・テヤンさんは平和財団の活動家として忙しい日々を過ごし、住民運動をしてきたユ・ホグンさんは、「韓国のモンドラゴン(スペインの協同組合)」を作る夢に向かって進んでいる。


兵役拒否者51人の良心は、虹のように異なる。2003年3月にプルム学校[忠清南道にある農を中心としたフリースクール]に通ったチェ・ジュノは、「農民と戦争は相異なるというエコロジーの信念」で兵役拒否を選択した。京畿道平沢で教師をし2006年3月に兵役拒否を宣言したキム・フンテさんは、1年6ヵ月の刑を終え、フリースクールである京畿道果川の自由学校で子どもたちを教えている。カトリックの兵役拒否者コ・ドンジュとベク・スンドク、プロテスタントの拒否者ハ・ドンギ、平和運動出身のオ・ジョンノク、映画監督のサンウ……良心の理由は異なっても、多くの兵役拒否者は、家庭内暴力・学校暴力・国家暴力など、暴力の構造を省察し、兵役を拒否するに至った。鋭敏な感受性を締め付ける風土に屈することなく立ち向かう彼らは、一種の生存者ではないだろうか。


文 シンユン・ドンウク記者 syuk@hani.co.kr

写真 チョン・ヨンイル記者 yongil@hani.co.kr


原文: http://h21.hani.co.kr/arti/cover/cover_general/29672.html 訳:兵頭圭児