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[ハンギョレ21 2009.07.31第771号]媚びて生き残った者たちの歓呼

[表紙の話]1世紀に及ぶ朝・中・東と権力の癒着…
総督府‘許可’と 新軍部‘統廃合’等 言論市場改編の度にスクスク育つ

◆アン・スチャン

言論関連3ヶ法案が国会を通過した翌日の7月23日<中央日報>の1面トップ記事のタイトルはこうだった。‘新聞・放送兼営禁止 29年ぶりに解けた。’ここで、29年前とは1980年全斗煥新軍部勢力のクーデター直後をいう。この題名はめまいを呼び起こす。新軍部の言論抹殺政策が29年ぶりに解消されたというニュアンスだ。1980年にどんなことがあったのだろうか? その時<中央日報>をはじめ<朝鮮日報><東亜日報>はどんなことを経験したのだろうか?
メディア関連3ヶ法案の闇討ち通過は保守政権が朝・中・東に贈る‘総合ギフトセット’の決定版だ。3ヶ保守新聞社は歴代保守政権の衣の下で巨大企業の肉を肥やした。1980年はその中でも典型的な時期であった。‘保守新聞の経営活路開拓代行、29年ぶりに再現された。’これがさらに率直な記事のタイトルだろう。80年代に終わったと思った保守政権の‘保守新聞培養’政策はこうして再登場した。その歴史は結構長い。ほとんど1世紀に及ぶ。手法は同じだ。 編集者

←朝鮮日報・中央日報・東亜日報(左側から)。写真<ハンギョレ21>リュ・ウジョン,ハンギョレ キム・ミョンジン,パク・ジョンシク記者

<朝鮮日報>と<東亜日報>は1920年に創刊した。日帝総督府が宥和政策の方便としてこれらの新聞発行を許可したことは歴史教科書にも出てくる話だ。ところが歴史教科書によく出てこない話がある。1910年韓-日併呑以後、ハングル新聞は総督府の機関紙である<毎日新報>等2ヶだった。反面、日本語新聞は<京城日報>等16ヶに達した。

1919年3・1運動はこれを逆転させた。3・1運動前後、全国的にハングル地下新聞が発行された。<朝鮮独立新聞><覚醒号><労働会報>等50種余りのハングル新聞が全国各地で出現した。総督府の許可を受けなかったため‘地下新聞’だが、唯一の‘自由言論’でもあった。<朝鮮独立新聞>の場合、創刊号1万部が一瞬のうちに配布され、群衆がこれをまた謄写版に写して配布した。

総督府の‘選別’,歴史が始まる

‘地下’自由言論を絶滅させようと総督府はハングル民間新聞の発行を許可した。数十件の申込書が受けつけられた。しかし<朝鮮日報><東亜日報><時事新聞>等3ヶ新聞の創刊だけを許諾した。日帝治下<朝鮮日報>記者として働いたキム・ウルハンが1975年に出した<韓国新聞夜話>という本がある。「民間有志たちは…申込書を提出し激烈な競争をすることとなった。しかし蓋を開けて見ると、結局3ヶの新聞を許可しただけだった。」<時事新聞>は創刊直後に自ら廃刊した。結局<朝鮮日報>と<東亜日報>だけが総督府から‘選別’を受け市場寡占権を与えられたわけだ。<朝鮮日報>の創刊主体は親日商工人団体の大正親睦会だった。<時事新聞>を作ったのは新日本主義を標ぼうする国民協会だった。<東亜日報>は‘民族紙’を標ぼうしたりしたが、初代発行人イ・サンヒョプは総督府の機関紙<毎日新報>の編集局長出身で、初代社長パク・ヨンヒョは韓-日併呑に貢献した代価として侯爵位を受けた人物で、事実上の経営者であったキム・ソンスは日帝の農民収奪に寄りかかり朝鮮一番の大地主になった人物だった。以下は<朝鮮日報>1985年4月19日の記事だ。「一部土着貴族,地主勢力は植民統治の最も中枢的な同盟軍でした。結局、貴族・地主・親日言論人で混成された側に許可されたのが東亜日報であり、商工人集団に与えられたのが朝鮮日報でした。」

1945年解放直後、2回目の‘自由言論’の時期がきた。1945年末までに40種余りの新聞が新しく創刊された。当時有力紙は<朝鮮人民報><自由新聞><中央新聞>等だった。言論人ソン・ゴンホは<韓国言論正しく見ること>という本でこのように回顧した。「洗練された編集と進歩的民主主義を標ぼうする<朝鮮人民報>は比較的公正な論調でどんな政治勢力にも加担しなかった<自由新聞>および<中央新聞>と共に当時の言論界を支配した。」

しかし米軍政はこれら新聞を‘左翼新聞’に追いやり廃刊させた。1947年以後40種余りの新聞が廃刊・停刊処分を受けた。米軍政は代わりに‘右派新聞’を育てた。もう一度<朝鮮日報>と<東亜日報>が恩恵を受けた。発行が途切れていた<東亜日報>は1945年11月末、続刊を知らせるビラに「(米)軍政当局の好意により京城日報社の一部施設を利用することになり準備中です」と明らかにした。<朝鮮日報>も1945年11月23日続刊辞で「私たちの朝鮮日報は軍政庁の好意的支持と理解ある斡旋により今日から再起する」と明らかにした。米軍政が没収した総督府の財産をこれら新聞社に再提供したのだ。

1948年8月15日にスタートしていた李承晩政府は残存した新聞らを再び廃刊した。1949年6月上旬までに56ヶ新聞が停刊・廃刊になった。 進歩指向の新聞は皆消えた。韓国言論人連合会が出した<韓国言論100年史>は「左翼系新聞が痕跡をなくすや東亜日報,朝鮮日報など右翼系新聞らの全盛時代が開かれることになった」と書いている。

←新軍部による報道機関統廃合は報道機関代表らの協力の下になされた。1980年11月、報道機関代表らが自筆で書いた言論統廃合覚書。写真ハンギョレ資料

新聞・放送兼営許容は朴正熙政権の時

朴正熙政権はこれら保守言論を本格的に後援した。1960年4・19直後、3回目に訪ねてきた‘自由言論’の時期に色々な新聞がまた創刊されたが、1961年5・16クーデター直後に朴政権は大々的な統廃合を断行した。その年だけで1170種の日刊紙などの刊行物が廃刊になった。生き残った言論には各種特典を施した。

クーデター直後に発表された‘言論に対する基本方針’には、各種育成対策が含まれていた。資金融資,輸入関税引き下げ,税金減免などだ。<韓国言論100年史>は「健全な企業に育成するという名分を掲げていたが事実上、言論の批判的抵抗性を構造的に統制するためのもの」だったと評価した。

1967年当時、一般貸出金利は25%であった。新聞社は18%の金利だけを出した。当時一般輸入関税は30%だった。新聞社は新聞用紙を輸入し4.5%の関税率だけの適用を受けた。韓-日協定に前後して、日本から持ってきた産業借款の内、4千万ドルが<朝鮮日報>の持分になった。国内金利が26%であるのに比べ、借款の利子は年7~8%だった。その金は植民支配に対する補償として日本から受け取った対日請求資金だった。<朝鮮日報>はこのお金でコリアナホテルを作った。基幹産業でもない観光ホテル建設に外資を配分できないとして経済企画院の実務担当者が関連書類に署名することを拒否する一幕もあった。

このような形で当時、新聞社の大部分が急激に企業力を拡張した。1968年<朝鮮日報>の社屋とホテル建築、1962・68年<東亜日報>の社屋増築、1965年<中央日報>の社屋新築などが代表事例だ。朴政権は邪魔な新聞社を廃刊させながらも、本格商業主義を標ぼうした<新亜日報>(1965年)や巨大財閥が運営する<中央日報>(1965年)の創刊を許可した。朴政権の時に新しく創刊された‘唯ニの’中央日刊紙らだ。

いわゆる新聞社の‘新聞・放送兼営’を許可し財閥の報道機関経営参加に目をつぶったのはまさに朴正熙政権だった。<東亜日報>が1963年にラジオ放送を開局した。三星は1964年にラジオ・テレビ放送を開局した後に1965年<中央日報>を創刊した。朴政権が事実上直轄した文化放送は1974年<京郷新聞>を吸収合併した。その他にもホテル業,広告業,レジャー産業などに新聞社らは続々と進出した。<東亜日報>の場合、1961年全体売上の中で多角経営の収入比重は4%に過ぎなかったが1970年には29%に増えた。1960年代韓国の経済成長率は年平均8~10%だったが、新聞企業だけは年20%ずつ成長した。

1981年~87年,6大日刊紙売上 3倍に増える

1980年全斗煥新軍部政権は朴正熙政権の方式を拡大適用した。1980年5月のクーデター直後、新軍部は少なくとも1900人以上の言論人を解職した。全国64ヶ報道機関の内、新聞14ヶ,放送27ヶ,通信7ヶ社を統廃合した。その代わりに残った新聞社らを対象に輪転機導入関税を20%から4%に引き下げた。商業印刷,スポーツ事業,不動産賃貸など追加で多角経営を許可した。新聞社らが16種の雑誌を新しく発行することも許諾した。5年間に海外視察,海外研修,子供の学資金,取材手当免税,住宅資金融資,生活安定資金提供などの名目で300余億ウォンを記者らに提供した。

新軍部は<東亜日報>所有の東亜放送,<中央日報>所有の東洋放送を韓国放送に統廃合したが、3ヶの保守新聞社はその反対給付をたっぷりと取り込んだ。

‘生き残った’6大中央日刊紙は飛躍的に成長した。1981年から1987年まで、6大日刊紙の売上は3倍も伸びた。同じ時期<東亜日報>の資本総計は4.5倍に増えた。1981年から1986年まで<朝鮮日報>の輪転機は14台から24台に増え、<東亜日報>と<中央日報>は並んで15台から21台に増えた。特に<朝鮮日報>の売上は1980年の161億ウォンから1988年には914億に増えた。同じ期間に<東亜日報>の売上が265億ウォンから885億ウォンに増えたことと比較しても際立って見える成長だった。

<韓国言論100年史>は「統廃合など報道機関の改編がある度に生き残った言論機関の経営はさらに好転した。生き残った媒体は寡占の有利な位置を利用し企業を拡張することができた」と書いている。

したがって1980年は韓国保守新聞らにとって歴史的な年だ。1980年代をたどりながら<朝鮮日報><中央日報><東亜日報>は国内100大企業の隊列に入ることはもちろん、これ以上は後発走者が追いつくことのできない高度な規模を備えた。韓国言論財団が発行した<2008言論経営成果分析>資料によれば、2007年現在売上額は<朝鮮日報>4031億ウォン,<中央日報>3420億ウォン,<東亜日報>は2803億ウォンだ。分社した子会社などを考慮すれば金額は更に増えるだろう。同じ時期<ハンギョレ>の売上額は760億ウォンだった。‘新聞・放送兼営’が可能な新聞社は<朝鮮日報><中央日報><東亜日報>のみだ。

あからさまに茶碗を用意する

3ヶ保守新聞社は総督府,独裁政権,軍事政権などを経て寡占市場を保証されてきた。その時期にこれらが良心的言論人を追い出し権力に迎合し、どんなわい曲報道をしたかについては書こうとすれば、さらに多くの紙面が必要だ。明らかなのは1987年6月抗争以後、政権次元で報道機関経営の問題を直接解決することはなくなったという点だ。金泳三,金大中,盧武鉉政府をつなぐ去る20余年、権力と言論の関係に対する色々な論議があったが、どの政権も保守新聞社の茶碗をあからさまに用意してはいない。今や政府は3ヶ保守新聞社の前に放送市場を新しく開いてあげた。本当に久しぶりのことだ。

参照資料:<権力変換>(人物と思想社),<韓国言論100年史>(韓国言論人連合会),<韓国言論の社会史>(知識産業社),<2008言論経営成果分析>(韓国言論財団),<新しく書く韓国言論社>(アチム),<80年5月の民主言論>(ナナム出版),<自由言論>(ヘダムソル)

アン・スチャン記者ahn@hani.co.kr

原文:http://h21.hani.co.kr/arti/cover/cover_general/25453.html 訳J.S