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‘抗日運動基地’ 北間島生き生きした遺跡・写真 公開

原文入力:2009-03-04午前01:01:18
満州, 北間島, 明東村 歴史資料 1千点余り 4月展示

キム・ギョンエ記者

←1910年頃完成された明東村の略図。1899年金躍淵先生をはじめ咸北鐘城,五龍川の五賢と呼ばれる5家族142人が集団移住し荒れ地に切り開いた北間島初めての朝鮮人共同体であり、抗日民族運動の基地であった。五賢は圭巖 金躍淵,素庵 金河奎,文秉奎(ムン・イクファン牧師の祖父),南韋彥,ユン・ハヒョン(尹東柱詩人の祖父)等、五人のソンビ(在野知識人)を称する。日帝は1920年10月キョンシン大討伐の時、明洞学校と明洞村を不逞鮮人養成の策源地と目星をつけ校舎を燃やすなど弾圧した。キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

旧韓末、朝鮮人たちが切り開いた満州,北間島地域が‘抗日民族運動の基地’だったことを立証する遺物が新しく公開された。
間島史料研究家キム・ジェホン(60)氏は1919年延辺の龍井一帯で広がった3・13万歳運動の現場と屋根の軒瓦に彫られた太極旗紋などを3日<ハンギョレ>に公開した。キム氏は1899年咸北,鐘城から吉林省画竜県のチャンジェ村(現・龍井市智新鎮)に集団移住し初めての朝鮮人共同体の村‘明東村’を開拓した圭巖 金躍淵先生の曽孫子だ。

←1919年3月13日北間島,龍井の海蘭江辺で数万人の朝鮮人たちが独立万歳を叫んでいる。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

 

 

←1919年3月13日満州,龍井で広がった‘3・13独立万歳運動’当時、日本武装官憲の銃撃で死亡した明東学校学生をはじめ数十人の朝鮮人犠牲者らを診てくれたのはカナダ宣教会が運営していたチェチャン病院だった。中日戦争に続いて太平洋戦争を起こした日帝が1941年龍井のすべての外国人に退去令を下してカナダ宣教会も撤収した。写真は1941年3月当時、龍井の日本領事館のまさに裏手にあった圭巖 金躍淵牧師の自宅で送別会をした時に記念に撮ったものだ。1983年キム・ジェホン氏がカナダで会ったチェチャン病院の看護師長だったペウィド(レベカ)の子孫から3・13万歳現場写真と共に受理した。最前列左側からチェチャン病院長ユク・ジャンアン(ブラック),ウンジン中学校長プレス(プルス),金躍淵牧師,ノアリョク,ノウンヘ,チェチャン病院看護師長ペウィド,ミョンシン女子高校長アン・ドソンなどだ。アン・ドソンの後列左にムン・イクファン牧師のお父さんムン・ジェリン牧師(帽子かぶった人)と右側にムン・イクファン牧師(メガネかけた人)の姿も見える。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

←1941年3月日帝の外国人退去令で龍井を離れカナダに帰ることになったチェチャン病院看護師長ペウィド(右側)とミョンシン女子高校長アン・ドソン(右側2番目)を金躍淵牧師(左側2番目)家族らが送る際に撮った記念写真だ。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

 

最も目を引く写真は1919年3月13日龍井の海蘭江辺ソジョン野原で朝鮮人数万人が太極旗を持って“対韓独立万歳”を叫ぶ場面だ。‘3・13蜂起’と呼ばれるこの日、万歳事件は間島の民族指導者17人がソウルから伝達された独立宣言書を布告文形式で発表した後、龍井の日本領事館に向かってデモをしたものだ。ソ・デスク前ハワイ大客員教授は<北間島地域韓国人民族運動>で「当初3万人が殺到したこの日、デモは当時中国当局から許可を受けていたが日帝の武装官憲が銃撃をしたために17人が亡くなり30人余りが重軽傷を負った」と明らかにした。ソ・グェンイル韓神大名誉教授は「蜂起直後の5月から正義団をはじめとする抗日武装団体が本格闘争に立ち向かう起爆剤になった」とその意味を評価した。

キム氏は「当時の死亡者とケガ人を診てくれた龍井チェチャン病院の看護師長ペウィド(レベッカ)に83年カナダで会いこの写真をもらった」と話した。

←朝鮮人の村である明東村の屋根の軒瓦に太極旗と十字架紋が刻まれている。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

 

 

←太極旗とムクゲ紋の瓦押さえが残っている吉林省,明洞村の韓国式家屋。1920年代以後、金躍淵先生をはじめとする開拓民たちの大部分が龍井に移住し衰退した明東村で珍しく今まで原形そのままに残っている家だ。咸鏡道を含む北方型住居の典型で、中央に台所を置き西側に田の字形に部屋を配置してあり、東側には牛小屋と精米所を置いた両筒型だ。左に最近復元された明洞教会の屋根とその向こう側に明洞村の象徴指標である立岩が見える。キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

←1900年代初めに建てられた北間島,明東村の韓国式家屋。瓦屋根の屋根の棟に‘寿福’と太極旗紋を刻んだ瓦押さえが今でもはっきり残っている。1899年豆満江を渡り龍井村南側40里画竜(現チシンヒャン,チャンジェ村に集団移住した金躍淵先生一行142人は‘東方を明らかにする’という意味で村の名前を明東村として瓦葺の家の棟も東側に向けた。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

今でも明東村に残っている韓国式家屋の屋根に使われた瓦の軒瓦の部分に彫られた太極旗とムクゲ紋も学界の注目をあびている。去る2004年の現地踏査でこの屋根の軒瓦を確認したキム・ソング当時国立光州博物館長と製瓦匠のハン・ヒョンジュン(無形文化財第91号)氏などは「1900年代初期、太極旗とムクゲが彫られた軒瓦は国内では前例がなく中国の八卦とは異なり、私たちの固有の師卦が明確で3・1運動の時に使われた太極旗の原形と見える」と話した。

←吉林省東北部ラジャグの洞窟壁に太極旗と独立軍らの名前が記されている。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

 

 

←2004年中国,吉林省ワンチョン県のナジャグ,テピョン村シンソン洞にある洞窟を訪ねたキム・ジェホン氏が洞窟壁に黒色で書かれた太極旗と独立軍らの名前の前に立っている。ここは1910年代中盤、抗日武装闘争を準備した近隣のナジャグ士官学校(ドンニム学校)学生たちが潜伏した場所で、50年代末に北韓の抗日史跡調査団が発見し写真は残したが正確な位置は知らされていなかった。延吉市当局は2008年にここを文化財として登録し保護した。 キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

金氏は北間島とロシア境界地域の吉林省ワンチョン県 ラジャグの洞窟壁に描かれた太極旗と4人の独立軍の名前の写真も公開した。太極旗の絵の真上に書かれた‘イ・ジュン,リャン・ヒ,チ・スンホ,チャン・テホ’の4人は1914年抗日武装闘争を指揮したイ・ドンフィ先生が建てたドンニム学校(ナラグ佐官学校)所属学生たちだと明らかになった。この太極旗壁画は延辺でも写真でだけ知られていたが2004年キム氏が現場調査の末に洞窟を捜し出したことによって存在が確認された。

金氏は“この間学界だけに知らされた資料だが、今年が3・1運動90周年であり明東村建設110周年の意味を生かそうと公開することにした」と話した。この写真を含めてキム氏が寄贈した明東村史料1千点余りは来る4月、国立民俗博物館で展示される予定だ。

キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/342064.html 訳J.S