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大阪‘古代百済人’馬飼育 遺跡 確認

原文入力:2010-11-24午後08:24:42(1712字)

ノ・ヒョンソク記者

←日本、大阪の蔀屋北遺跡から出土した馬の全身骨

‘阿直岐’という名前は現在、過去の歴史書物に伝わる最も古い在日同胞の名前だ。日本の過去の歴史書物である<日本書紀>を見れば、阿直岐は4世紀百済近肖古王の命により馬2頭を引いて日本に渡り日王に贈った後、現地朝廷で馬の飼育を受け持ったという。日本の王は儒学 経書に明るい阿直岐を太子の師とし、彼が天皇に推薦し博士 王仁も日本に来ることになったと伝えている。

"馬骨・移動式かまど・クツワなど発掘
全南、栄山江一帯遺物と類似"
大阪府教育委、学術大会で公開

阿直岐のこうした歴史的行跡と関連すると推定される5~6世紀百済移住民たちの馬飼育遺跡が古代日本の中心であった大阪地域で最近確認され、学界の関心が集まっている。話題の遺跡は現在の大阪府東部四條畷市にある蔀屋北遺跡。2000~2009年に数回にわたり発掘調査した結果、多数の馬骨と古代韓半島様式のアブミ、鞍、クツワなどの馬具、百済風の住居地、移動式かまど、U字形かまど装飾板、軟質・硬質土器らが相次ぎ出土したことが明らかになった。遺跡を調査した大阪府教育委員会の宮崎泰史研究員は去る20日、国立公州博物館で‘馬韓・百済の人々の日本列島移住と交流’を主題に開かれた国際学術大会を通じて遺跡発掘成果を国内学界に初めて公開した。

←鞍、クツワなどの馬具。

宮崎の報告文を見れば、河川沖積地に位置したこの遺跡は5ヶの住居跡に区分されるが、背が100~120?に達する親馬と子馬の骨や歯などが多数出土した。また、その近隣遺構からは馬が食べた塩を作った製塩土器、職人たちが活動した建物跡などが確認され、その中に移動式かまど、土器、刃物などの生活遺物と共に木造船の側板で井戸の枠組みを作った井戸跡も出てきた。

最も興味深いのは馬具と生活遺物たち。百済圏域の全南、栄山江一帯と忠清道、中部圏遺物と類似したものが多かった。クツワの場合、クツワと取っ手を輪を利用して連結する百済・伽耶のクツワと全く同じだ。乗馬する人の足掛けであるアブミは典型的な韓半島系様式でひもがついているが、乗馬練習でできたすりへった跡もあらわれた。また、鳥足跡紋(鳥足文)や直線紋が混じった打捺紋(叩き紋)土器、かまど装飾板などは国内湖南地方西南側海岸や湖西地方の典型的様式であり百済特有の壁柱建物の跡まで確認されている。

宮崎は「百済の馬飼育専門家たちが塩土器を作った倭人人夫らを働かせ馬を育てた施設と見える」と話した。

←移動式かまど、馬具やかまどは典型的な百済様式の遺物で、この遺跡で百済の職人たちが馬の飼育に従事したことを知らせる決定的証拠となっている。

蔀屋北遺跡の造成時期は4~5世紀で、阿直岐が渡ってきた時期と大差ない。彼が定着したところも当時の大阪付近の関西地方と推定されており、この遺跡は阿直岐の活動を考古学的根拠で実証する意味を持ったわけだ。実際にこの日の討論の争点は遺跡の主人公の百済渡来職人の故郷がどこだったかという疑問だった。特に出土品の中で相当数を占める角が丸いかまど装飾板は栄山江一帯の馬韓系の人々が使ったものなどであり、渡来職人たちが湖南海岸出身の馬韓系の人々ではないかという推定が出てきた。反面、ソウル、百済、風納土城で見られる角ばったかまど装飾板も少数出てきており、忠清圏の土器影響も見られ色々な地域の百済人たちがきたという可能性も提起された。

ソン・ジョンヨン忠北大教授(考古学)は「日本国内の古代‘コリアタウン’の考古学的実体に対する国内初の学術討論であり、百済馬飼育職人たちの行跡と出身地を探るという点で風変わりな想像力を呼び起こした席であった」と評した。
公州/ノ・ヒョンソク記者 nuge@hani.co.kr ,写真 日本、大阪府教育委員会提供

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/450494.html 訳J.S