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日本に拉致された朝鮮人陶工の歴史、両国の為政者たちの交錯した論理で利用

登録:2023-12-19 05:11 修正:2023-12-20 06:53
ノ・ヒョンソクの時事文化財_拉致された陶工の神話を探る(2)
「鹿児島の朝鮮人の子孫」という見出しのついた「毎日新報」1918年5月1日付の紙面。欧洲視察団の鹿児島訪問と彼らをむかえた13代沈壽官の姿(後列最左端)=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

<1回目に続く>

 16世紀の陶工の沈当吉(シム・ダンギル)の末裔で、現在は15代目の子孫までになる沈壽官(シム・スグァン)一族は、朝鮮と日本のこれまでの美術交流史において、きわめて特異な存在だ。沈壽官一族は、壬辰倭乱(文禄の役)と丁酉再乱(慶長の役)の際に日本に連行された多くの朝鮮の陶磁器職人のなかで唯一、数百年の星霜を経て陶芸家の家業を守った。19世紀中頃に日本を代表するブランドとして大きく一族を興した12代沈壽官の大活躍以降、13~15代目の子孫が今でも12代目の名前をそのまま用いて繁栄しているためだ。

 興味深いことは、韓国人の間では、沈壽官は本業よりも韓国と日本をつなぐ民間外交官として記憶されているという点だ。それにはそれ相応の歴史的な背景がある。沈当吉が連行されたのは400年あまり前のことだが、19世紀中頃から後半に12代沈壽官が新たに一族を興して以来、日帝強制占領(日本の植民地時代)初期から朝鮮を行き来した交流の歴史も、100年以上にわたり蓄積しているためだ。最近、近代期の沈壽官一族の陶芸技術の革新と朝鮮との交流の状況について研究し、先月には関連の学会で発表した高麗大学文化遺産融合学部のキム・ユンジョン教授の論考によると、沈壽官家が朝鮮を訪問し交流を本格的に始めた時期は13代目の時代である1924年頃だが、連行された陶工の末裔として陶磁器の窯の命脈を受け継いできた歴史は、すでに1900年に韓国に知られていたことが明らかになった。

 端的な事例が、1900年の「皇城新聞」4月4日付と10日付に掲載された2つの長文記事だ。これらの記事は、壬辰倭乱の時に拉致された沈当吉以降の一族の歴史と、12代沈壽官が高級装飾磁器を自ら開発して名声を高め、世界各国に輸出しているなどの状況を詳細に伝えながら、近代化の過程で衰退してしまった朝鮮陶磁器の分野が見習わなければならない朝鮮人の子孫であり、事業家・職人として子孫を描写した。韓日併合後には、総督府の機関紙である京城日報社と毎日新報社の主導で派遣された九州視察団が、1918年に鹿児島の13代沈壽官を訪問し、朝鮮との人的交流が始まる。

有田陶芸村を見下ろす山の頂上部にある陶祖李参平碑。20世紀初め有田地域の有志の努力によって作られた=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 関連記事はその年の4~5月の3回にわたり「毎日新報」に掲載されたが、1918年5月1日付の「鹿児島の朝鮮人の子孫」と題する写真で、13代沈壽官の姿を見ることができる。1921年に斎藤実朝鮮総督が鹿児島の窯を訪問して13代沈壽官を励まし、その後、朝鮮の13道の郡守が内地視察団を作り、沈壽官窯を競って訪れた。13代沈壽官も1924年から1937年まで定期的に朝鮮を訪問し、総督府の嘱託に任命され、朝鮮各地で講演会を開催した。故国を訪問した対外的な目的は、朝鮮の陶磁器製造業を興して内鮮融和に努力しようということだと、メディアに明らかにしていた。キム教授は、朝鮮を日本に完璧に統合しようとする「内鮮融和」政策の一つとして利用しようとする総督府の目的があったことは明らかだと分析した。

 解放(日本の敗戦)後の韓国との交流は、1965年の韓日国交正常化後に14代沈壽官がソウルを訪問することによって、約20年ぶりに再開された。その後、駐鹿児島大韓民国名誉総領事への任命、南原(ナムウォン)名誉市民、青松(チョンソン)名誉郡民の認証などを通じて、14代と15代の沈壽官は、日本のなかで韓民族の精神を見出した神話的な事例として韓国メディアなどで大々的に紹介された。日帝強占期には日本本土である内地と植民地朝鮮をつなぐ懸け橋として、解放後には異国の地における韓民族の末裔であり民族の魂の象徴として、彼らの歴史と作品が認識され知られることになったのだ。拉致された陶工の末裔として激しい努力を通じて生き残った歴史的な過程自体が、両国の為政者によってそれぞれまったく違う民族的な論理で利用され、司馬遼太郎の小説など虚構が添えられた様々なフィクション的叙述によって、そうした論理はよりいっそう増幅された。

世界的に有名な日本の有田陶芸村が始まるきっかけになった泉山磁石場。17世紀初めに朝鮮人陶工の李参平がここで白磁の原料となる白土を発見したことで日本における本格的な磁器生産が始まる=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 沈壽官家以外の連行された陶工たちの子孫は、ほとんどが日本人に同化したり陶磁業をやめたりした。日本で1614~15年に白土の鉱山を佐賀県泉山で発見し、日本初の有田白磁の磁器生産の元祖となった功績によって崇拝されている李参平(イ・サンピョン)の場合も、本貫と故郷はどこなのか、今もなお実体は明らかではない。「李参平」も記録で確認された正式の名前ではない。そのため、九州陶磁文化館などの現地の展示館は、公式の説明文には、李参平の代わりに文献で確認される日本式帰化名「金ケ江三兵衛」で人名を表記している。彼の子孫は100年以上陶磁業から離れて生活し、最近ふたたび有田町で家業を再開したが、窯の評判と規模はごく小さな水準だ。17~18世紀に沈壽官一族に先立ち薩摩焼で名声を高めた朴平意(パク・ピョンウィ)の子孫は、19世紀初頭に家業から離れ、日本関連の方向に進んだ。13代目の朴茂徳(パク・ムドク、東郷茂徳)は日帝の外相を務め、戦犯として獄中生活を送り死亡した。

佐賀県九州陶磁文化館の入り口にある17世紀初期の有田窯の生産品である花唐草模様の青華白磁皿。朝鮮人陶工たちが作ったと推定される=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 日本の現地では、彼らの貢献を否定はしないが、観点は明確に異なる。佐賀県にある日本陶磁文化館などに展示されている現地学界の公式説明によると、17~19世紀における九州などの当時の日本の陶磁器の産地は、朝鮮や中国に比べ資金や技術、人材の流れがきわめて円滑だったおかげで、当時の陶磁芸術史の主役になれたという見解を示している。そうした背景のもと、朝鮮をはじめ中国や欧州の職人が持ってきた胎土、窯、装飾技法などの技術が調和し、17~19世紀に日本が世界の陶磁器の芸術交流の主要な拠点となることが可能になった。その過程で朝鮮人陶工たちも、17世紀初めの白土鉱山の発見と日本で最初の磁器生産などを通じて部分的に一定の役割を果たしたと解釈している。韓国人の立場としては、日本が朝鮮出身の陶工の業績を縮小しているのではないかとも考えうるが、歴史的記録や中国風と日本風の築造の跡が濃厚な窯の跡、朝鮮白磁とはまったく異なる別の彩色装飾術を用いた各種の陶磁器の遺物などの客観的な資料に基づいて出した解釈という点で、学問的に反論することは難しい。

 朝鮮人陶工たちが、世界美術史上まれにみる拉致などによって他国に連行され、現地の陶磁器文化を復興させることに寄与したことは、明確な事実だ。しかし、遅れた日本の陶磁器文化を全面的に朝鮮人陶工の主導のもとで引き上げたというような解釈は、民族主義的な観点にともなうまた別の偏向に過ぎないものであり、世界の学界でも普遍的に認められることは難しいことを直視しなければならない。このような点が韓国の陶磁史の専門家たちの指摘だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1120764.html韓国語原文入力:2023-12-18 08:35
訳M.S

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