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[マガジンesc] 昔の風景の中に入る

原文入力:2010-02-17午後08:37:10(4026字)
escウォーキングマップ19.江景邑(カンギョンウプ)近代文化遺産と玉女峯
論山(ノンサン),江景(カンギョン)駅から町登録文化財らと玉女峯を経て荒山展望台まで5km

イ・ビョンハク記者

←江景商業情報高等学校の塀の上の榎。この学校(旧 江景商高)を出たある年配の方は「暇さえあればあの木に登って、すぐそばの江景女子中高運動場を見下ろしていて先生につかまりひどい目にあったりした」と話した。

論山江景に玉女峯がある。海抜44mの低い峰だが展望が良く景色秀麗で、論山八景の一つに選ばれる。葦の林を従えて広がる錦江の流れと論山川,江景を抱いて流れる江景川,そしてこぢんまりとした江景の町が一望に見下ろせる。‘ゲンゲンイ’(江景の人々)は玉女峯周辺に集まって暮らし、朝鮮八道の三大市場の一つである江景場を作った。鉄道・新作路(国道3号線)が開設され錦江水路が詰まり過去の名声は消えていったが、山の斜面と水路,路地のあちこちに色あせていく痕跡が残っていて昔のことを明らかにする旅人たちを呼び入れている。江景駅から出発し町登録文化財らと玉女峯を経て荒山展望台まで歩く。

20年前には村全体が生活史博物館

江景駅四つ角で覆蓋川橋(旧 昭和橋)を渡り警察署ロータリー側に歩く。あちこちに大型看板を掲げた塩辛店が眼につく。江景邑には論山警察庁舍と検察庁舎が位置している。繁盛した昔の江景の残影だが、しょっちゅう庁舎移転説が飛び交い住民たちを緊張させるという。塩辛店を営むある住民が話した。「移るという話が出てくれば大騷ぎだよ。全村の住民が立ち上がって垂れ幕数百ヶを掛けるは、決死的反対運動をやるんだよ。一度、衰退の道を歩いた経験のためにそうなんだろうね。"

江景邑事務所を過ぎれば学校通りだ。左側に中央小学校があり、右側には江景高・江景女子中・江景商業情報高校と続く。江景女子中は'恩師の日'の発祥地①だ。1960年代初めから学生たちが毎年 恩師を訪ねて花を付けて差し上げたことを契機に1964年恩師の日が制定された。商業高の強者として名を馳せたいわゆる‘江商’(江景商高・現 江景商業情報高)に行く。近代文化財に登録された1931年に建設した校長舎宅②が残っており、この学校出身のキム・クァンシク(1934~1970)詩人の詩碑もある。1905年に開校した中央小学校に入り、優雅な赤レンガの建物を見る。体育館として使われている1937年に建てられた講堂建物(登録文化財)③だ。正門上側の壁に韓国戦争当時に砲弾が貫通した痕が残っていて反対側の壁には戦闘機の機銃掃射痕が鮮明だ。

←江景邑通り。日帝強制占領期間から60年代の建物までが全て残っている路地が多い。

学校を出て歩く路地は、数十年前の通りの風景への入口だ。美容院と教会と古いスレート屋根をのせた商店と、2階建て日本式家屋などが力を集めて旅人の足を懐かしい風景の中に吸い込む。空家,古い看板,割れた窓ガラス,ホコリの詰まった窓枠が両側に並ぶ通りで、年配の方々はゆっくりと自転車を転がし杖を突いている。論山市文化遺産解説士のユ・ジェヒョプ(64)氏が惜しむように話した。“20年前まで町は剥製化された生活史博物館を彷彿とさせましたよ。路地でも建物でも、みな日帝強制占領期間から60年代までの街そのままでした。”

かつての江景市場に入る。日帝強制占領期間、玉女峯の下にあった上市場とともに人波で沸き立った下市場がこちらだ。みずぼらしい住宅が一杯で、かつての痕跡を探しにくいが、一角に旧南一堂漢薬房の建物(登録文化財)④が残っていて旧市場の姿の一部を垣間見られる。1923年に作られた木造建物で、ほとんど完ぺきに昔の姿を大事に保管している。国内最初の神父であるキム・デコン神父遺跡地⑤立て札に出会う。上海で司祭叙品を受けたキム・デコン神父が1845年10月12日錦江を通じて江景浦口に入り2週間程度留まったという家の跡地だ。古の家屋は失われたが、すぐそばにその家より古いという民家が残っている。中央教会そばには‘神社参拝拒否先導記念碑’がある。

路地を曲がって德遊亭(郷土遺跡1号)⑥に行く。德遊亭は1793年(正祖17年)に建てられた矢場だ。100年を越えた歴代舍伯(会長)名簿,会員名簿と会則・成績,会則に反した会員を懲戒した棒までが保管されている由緒深い国弓場だ。德遊亭では今も70人余りの会員たちが毎日午後3時に弓を撃ち、それで体と心を治める。德遊亭を出て玉女峯に上る路地に入る。単層韓屋教会建物としては唯一だという北玉監理教会(登録文化財)⑦がこの路地にある。
玉女峯⑧に登る道のそばに兄弟電気商社の裏山の斜面には、かつての亭子の場所と泉,洞窟そして岩に彫られた色々な文字が残っている。解説士ユ氏は「この周辺は日帝強制占領期間に裁判所・警察署高位公務員たちの官舎があった所と推定される」と話した。

←ユ・オンニョ(110)ハルモニ

玉女峯にはオンニョ氏が暮らしているよ


玉女峯に登る。大きな欅と狼煙台がある頂上に上がる前に、玉のようにきれいな女性に出会った。タバコ看板が懸る雑貨屋にオンニョ氏は暮らしている。オンニョ氏に会おうと思えば先ずオクレ氏に会わなければならない。ソン・オクレ(76)ハルモニは25才で嫁にきて、45年間この家に住んでいる2番目の嫁だ。オンニョ氏は玉女峯で半生を生きてこられたユ・オンニョ(110・写真)ハルモニだ。耳が遠くなり、歯はみな無くなって、歯ぐきで噛んでいるオンニョ ハルモニは、開発と保全の狭間で痛ましく朽ちてゆく近代文化遺産に似ていた。店の建物は日帝強制占領期間、玉女峯にあった神社を管理する管理舎だった。
玉女峯は全体が岩だらけだが、岩々にはすべて先人たちが刻んだ文字だらけだ。玉女峯・影泡臺・チャム影台・仙住などの文字と玉女峯の経緯を書いたようなすりへった長文の文も見える。最も目を引く文は頂上西側絶壁‘九岩(クアム)’そばの岩に彫られた‘解潮文⑨’だ。 1860年に刻まれた“上げ潮・引き潮が生成される道理と水の高低を数値で解説してある文”だ。一種の潮汐表というわけだ。

玉女峯を下り錦江支流の閘門と排水ポンプ場に行く。日帝強制占領期間から50年代まで、この河川は全国から集まった船で埋められるようだったという。その場所には今、汚染物質を吸い込む植物 ホテイアオイが一面に茂っている。閘門は洪水の時に錦江の水の逆流を防ぐために設置したものだ。

←日帝強制占領期間 江景韓一銀行建物。登録文化財だ。

日帝強制占領期の旧韓一銀行(登録文化財)⑩建物を経て埠頭労働組合事務室(登録文化財)⑪に行く。埠頭労働者たちは全国から集まった船が積んできた海産物などをおろしたり、埠頭のそばにあった高橋精米所から出た米を船にのせる仕事を請けた。塩川橋を渡り錦江堤防側に歩く。堤防に沿って旧江景浦口の名声を証明するように漁船がたくさん展示してあった。大型船舶の形をした江景塩辛展示館⑫では江景の昔の写真および塩辛関連資料を見ることができる。屋上に上がれば錦江の川辺につながる荒山の稜線が道路などで切られていった姿が哀れに迫る。ここから出た岩を砕いて堤防を積むのに使ったという。石山の横の川辺に灯台のように見える白い塔は復元された水位測定塔だ。

←escウォーキングマップ19.江景邑近代文化遺産と玉女峯。(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)

荒山大橋側にしばらく歩けば竹林書院に達する。1626年に荒山書院として建てられ、1665年に竹林書院と王の命名を受けた書院で、趙光祖・李退溪・李栗谷・成渾・金長生・宋時烈の六氏を祀る。書院脇の階段を上がると美しい亭子 臨履亭⑬がある。沙溪 金長生が1626年に作った亭子で、ここで尤菴 宋時烈ら後輩の学者を教えたという。書院の横道に沿って上がれば荒山の中腹に臨履亭と同じ形の亭子 八卦亭⑭がある。宋時烈が師匠 金長生に倣って同じ形の亭子を作り後輩の学者を教えたという。

荒山頂上には展望台⑮がある。92段の階段を上がり見回せば、扶余郡,世道面の野原と全北,益山一帯,遠くには鶏龍山(ケリョンサン)と大屯山(テドンサン)の稜線まですがすがしく目に捉えられる。 江景駅からここまで5km余り歩いた。

ウォーキング メッセージ

◎首都圏から京釜高速道に乗り、天安~論山高速道路に乗り換え西論山出入り口で出、論山に行き23号国道に乗り江景へ行く。錬武インターチェンジから出て行き右折しても遠くない。

◎江景は塩辛ばかりでなく古くからファンボク(黄フグ)とウンオフェ(朝鮮カタクチイワシ刺身)の本場と呼ばれる。80余年 伝統のファンボク専門食堂 荒山屋(041-745-4836),ミョンボク食堂(041-745-1157)等で名声を継承している。ファンボク鍋1人前1万5000ウォン。ファンボクを出す食堂ではウンオフェも一緒に出す。ウヨフェとして更に熟成したウンオフェ和えもの3人分3万ウォン。

◎江景邑では来る10月20~24日、多様な塩辛作り体験,試食体験を交えた第14回江景発酵塩辛祭りを開く。江景伝統味塩辛事業協同組合(江景塩辛展示館内) (041)745-1985,江景邑事務所(041)730-4661,論山市庁文化観光課(041)730-3349.

江景(論山)=文・写真 イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/405216.html 訳J.S