百済では武寧王が、新羅では智證王が即位したばかりの6世紀始め、日本では暴君として悪名高い武烈の虐政が終わりに向かっていた。上毛野(かみつけの)と呼ばれた現在の群馬地域は、内陸に位置し海がなく夏には摂氏40度まで上がる蒸し暑いところだ。真夏の暑さに一人の男が夫人と幼い二人の子どもを連れて歩いていた。突然大地が揺れ、榛名山が爆発を始めた。
轟音と共に、火砕物(火山の爆発で出るガスや火山灰など)が吹き上がった。その家族は急いで小川のそばにうつ伏せになったが効果はなかった。有毒ガスで窒息した家族は、まもなく息をひきとり、次いで数十分間にわたり火砕物が家族を襲った。火山爆発の被害者は彼らだけではなかった。火砕物は噴火口の北東側25キロメートルまで流れ下り、数百人が瞬時に命を失った。村、田畑、道路がすべて火砕物に覆われてしまった。日本版ポンペイの悲劇と呼ばれる金井東裏遺跡だ。日本古代史の研究で重要な中筋遺跡も、この時まるごと埋没した村の一つだ。
Hr-FA(Hr=榛名山、F=二ツ岳峰、A=火山灰)大災難をかろうじて助かった人々は再び生活を続けた。家屋を修理し村を興し、水路を復旧し畑を作った。火山灰を掘りおこし畑を作ったり、火山灰の上に肥沃な土を盛って、その上に畑を作る刻苦の努力の末、ある程度の安定を得た。ちょうど武烈の暴政も終わり、継体という新しい王が擁立され、政治的にも安定を得た。新しい王を迎えた倭は朝鮮半島の新羅、百済とも友好的な関係を維持した。
20年の時間差を持つ群馬県の遺跡
だが、群馬では泰平の時代は長くは続かなかった。Hr-FAが噴火して20年ほどの時間が過ぎ、榛名山が再び噴火した。今度は火山噴出物の種類が異なり、軽石が榛名山の東側を広範囲に覆った。Hr-FP(P=軽石)と呼ばれる火山爆発では、前回よりはるかに多くの村がまるごと埋没したが、そのうち発掘調査で確認された遺跡が黒井峰遺跡だ。
20年ほどの時間差を置いて順に埋没した黒井峰村と中筋村は、1500年前の人々の暮らしの様子そのままを保存しているという点で大変重要だ。住民が引っ越しをしたり、家屋を廃棄すれば家財道具が残らないために、発掘調査をしても多くの情報は得られない。ところが、一瞬で火山の被害を受けた群馬の村は、住民が待避できないほど緊迫した状況が展開して、家財道具が家屋の内外にそっくり残ることになった。村で繰り広げられていた日常の生活が、そのまま動かずに発掘のシャベルが入る時まで残っていたということだ。馬を追い待避した人間と馬の足跡、それでも結局は亡くなった10代の少年の遺体まで発掘され、当時の急迫した事情を垣間見ることができる。
中筋遺跡で発見された遺物の年代はすべて同一時点に埋没したもので、黒井峰遺跡の遺物よりは20年ほど古いものだ。そのために遺物の編年と変遷過程をとても細かく追跡できる。ここで得られた年代観は群馬だけに適用されるものではなく、周辺地域で出土した遺物の年代を決めるのにも重要な基準として作用することになる。こうした点で黒井峰遺跡と中筋遺跡は、日本の考古学と古代史研究で極めて重要な遺跡といえ、当然各種の教科書に載った。
ところで、こうした遺跡をなぜ私たちが知る必要があるのか。古代の韓日関係史ともつながるためだ。2012年11月、群馬県の学者たちは、地下に積まれている3メートルの厚さのHr-FP軽石とその下のHr-FA火山灰を順に取りはらい、悲劇的な死を迎えた4人の痕跡を捜し出した。その中の鉄製うろこ鎧(鉄板を小さく切り、魚のうろこのように構成した鎧)を着た男性は、鉄槍、多数の矢尻、もう一着のうろこ鎧を持っていて事故に遭ったと発表された。男性は地面に鉄の兜を置き、その上に額を当てた状態で火山の反対側を向いて、あたかもお辞儀をするようにうつ伏せた姿勢だった。石とガラスで作られた美しい装身具を頭と腰に着けて死亡した女性は夫人と推定されるが、やはりうつ伏せになって死亡していた。火山学者と考古学者の共同研究によって、Hr-FAは合計15回にかけて噴火が繰り返されたが、彼らは2回目の噴火までは生きていたが、3回目の噴火で揃って絶命したことが明らかになった。
金井東裏(かないひがしうら)という多少長い名前がつけられたこの遺跡は、ある家族の悲劇的な死によって有名になったが、研究が進むにつれいっそう驚くべき事実を見せてくれた。男性が持っていた鎧は、着ていた鎧と同じように鉄板のうろこで作られたものだが、胸部位に鹿の骨を磨いて作ったうろこ鎧一式が重ねられた状態だった。このような動物の骨のうろこ鎧は、日本で発見されたことがない。ただ、韓国のソウルにある夢村土城(モンチョントソン)で発見されたことがあるだけだ。九州や大阪でもなく、百済の王城から唯一の比較対象が出土したので、日本の学界の関心が集まるのは当然だった。
初めは日本書紀の記録に基づき
「朝鮮半島の捕虜を捕らえてきた」と解釈
研究の結果、現地の有力一族が
「先進文明導入」の努力をしていたことが明らかに
鎧男も「渡来人形質」と判明
日本考古学の研究者は韓国国内に1人
古代韓日関係史の糾明の道は遠い
朝鮮半島系住民と現地人の婚姻は盛ん
群馬地域は、5世紀から6世紀にかけての新羅と百済の遺物が多く出土する所だ。かなり以前から百済系の土器とガラス、新羅系の金銅冠と靴、馬具、伽耶系の耳飾りなどが発見されてきた。朝鮮半島系の遺物が発見される背景については、この地域の頭目だった上毛(かみつけ)一族が4世紀から7世紀まで数回朝鮮半島に出兵したという日本書紀の記録を重視し、この時に新羅人を捕虜として捕らえてきたという主張があった。だが、発掘調査が進むにつれて、朝鮮半島の住民が捕虜として捕らえられてきたのではなく、逆に上毛一族が先進文明を得るために努力し、朝鮮半島系の移住民が群馬地域に積極的に移住、定着、活動した事実が明らかになった。群馬という地名からも分かるように、馬を育てる馬牧場で有名なここに馬が入ってきた背景には、朝鮮半島系住民たちの活躍があったことも明らかになった。こうした状況で百済風の鹿骨うろこ鎧が出土したので、日本の学界の関心が集まるのは当然のことだった。
この不幸な男性の正体を明らかにするために、先端科学技術が動員された。火山灰の温度があまり高温でなかったおかげで、人骨と鉄器は溶けず、鉄製鎧の中には人骨がそっくり残っていた。うつ伏せになって死亡したので、後頭部は一部損傷を受けたが顔は比較的よく残っていた。分析の結果、身長164センチ程度の40代の男性、腸腰筋と下肢筋が発達していた点から、日常的に乗馬をした武士と推定された。顔は典型的な「渡来人(朝鮮半島系移住民)の形質」を持っていたので、近畿や北部九州、あるいは朝鮮半島から移住した人物と推定された。
隣で発見された女性は、年齢30代、推定身長143.8センチ、妊娠経験のある経産婦、顔の形が関東(群馬・埼玉など東京周辺)と東北(宮城・岩手など本州北方)地方の特徴を持っていたと発表された。筋肉と骨が発達している点から、貴族的な生活でなく労働を多くした経歴の所有者と判明した。頭蓋骨だけが残った2人の子どものうち1人は5歳程度の性別不詳で、残りの1人は分析不可能だった。
ストロンチウム(Sr)同位体比分析という先端技術を活用した結果、夫婦と推定されるこの男女は、幼少年期を同じ場所で過ごしたが、群馬の北側に位置する長野が有力候補と推定された。一方、5歳の子どもが育ったところは、この子どもが死亡した群馬という事実まで明らかになった。
この男性が朝鮮半島出身ならば、なぜ長野で育ち群馬で死亡したのだろうか? 関東や東北系統の顔を持つ女性は、なぜ長野で育ち群馬で死亡したのだろうか?過度な類推は禁物だが、一つ描いてみてもおかしくない仮説は次のとおりだ。朝鮮半島から移住した先祖を持つ男性と、日本の関東-東北出身の先祖を持つ女性が長野で出会い結婚し、群馬に移住して子どもを産み暮らしていたが、火山の爆発で一緒に亡くなったということだ。
日本列島に移住し定着した朝鮮半島系の住民が、現地人と婚姻するケースは珍しくなかった。山口県土井ケ浜遺跡では、弥生時代(紀元前5世紀~紀元後3世紀頃)の墓が多数発見され、300点にのぼる人骨資料が確保された。体質人類学的研究を進めた結果、東南アジア的伝統を持つ先住民(縄文人)と朝鮮半島から渡っていった移住民(弥生人)が共存していたことが明らかになった。彼らの混血によって、現代日本人の主軸が形成されたという主張は既に日本学界の主流をなしている。三国時代に入っても、偶然な機会あるいは政略的目的で朝鮮半島の住民と日本列島の住民の間に婚姻が成立したケースは非常に多く確認されている。
1人対10人、韓国対日本の研究者
私たちは近代に入り、日本の皇国史観によって私たちの歴史が歪曲される苦痛を体験した。その歪曲を正すために多くの努力を傾けた結果、解決された部分もあるが相変らず未解決状態の部分も多い。古代韓日関係史の解明は、文献資料だけでは難しく、考古学的資料の助けを受けなければならない。日本の学界で「渡来人」、「渡来系文物」と呼ぶ実体は、実は朝鮮半島系の移住民、朝鮮半島系の文物だ。歪曲された韓日関係史を解明するには、いわゆる渡来人と渡来系文物に対する研究が大きな役割を担う。史料的価値が疑問視され多くの毒素を含んでいる日本書紀にだけ頼るのではなく、大地から出た生き生きした資料に目を向けなければならない。
だが、実際問題として韓国でのこのようなテーマに対する研究は非常に不十分だ。メディアは時折特集という形で、すでに死亡宣告を受けた任那日本府という亡霊を棺から引き出して国民を憤怒させ、数人の専門家の発言を借りて亡霊を鞭打ちし、国民にカタルシスを提供している。だが、こうした行為の反復は、古代韓日関係史の解明を助けるどころか、むしろ退歩を誘導するだけだ。
韓国国内で日本古代史、特に7世紀以前の時期を専攻する研究者は10人余りだ。多くはないが、それでも「研究者集団」と呼ぶには値する。ところが、私たちの古朝鮮-三国時代に該当する日本の弥生時代と古墳時代を専攻する考古学研究者は僅か1人しかいない。それも定年までいくらも残っていない50代後半の研究者だ。私たちの古代史と関連した日本考古学を正面から扱うことができる若い研究者は、未だに輩出されていない。金井東裏遺跡や土井ケ濱遺跡のように古代韓日関係史の謎を解く情報を含む遺跡を扱う韓国人研究者は、今後もしばらくは現われないだろう。その反面、韓国考古学をテーマとして博士学位を受けて活動している日本人研究者は、筆者が知っているだけでも10人を超す。
古代韓日関係史に対する私たちの社会の高い関心にも関わらず、この課題を解決する研究者の養成に私たちは失敗したわけだ。日本の古代史や考古学を研究するだけでも“親日派”という頸木をかけられる危険性が高く、就職も難しい社会の雰囲気で、一生を捧げる新進研究者を得るということは、既成世代の欲ばりだ。3・1運動100周年を迎えて、反日と抗日、知日と克日の問題を今一度十分に噛みしめてみる。
クォン・オヨン・ソウル大学人文学部教授