原文入力:2009-05-27午後02:59:34
[イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ]③楽浪郡はどこにあったか
2千年前漢書 “北京一帯に位置”
後漢書 “楽浪=旧朝鮮,遼東にある”
史記 “万里の長城始点に位置”
←楽浪郡にあったという碣石山. 現在、河北省昌黎縣にあるが、秦始皇と曹操が登った有名な山だ。
日帝植民史学者らは漢四郡の楽浪郡が平安南道と黄海道北部にまたがっており、その治所(楽浪太守府)は大同江岸の土城洞だと主張した。現在中国はこの論理により漢江北側を中国史の領土だったと主張している。韓国の東北アジア歴史財団のホームページは「衛満朝鮮の首都付近に設置された楽浪郡朝鮮縣の治所が現在の平壌市,大同江南岸の土城洞,土城」として、彼らの論理に同調している。日帝殖民史学と中国東北工程,そして韓国主流史学界は楽浪郡の位置に関しては三位一体のようである。しかし、大同江岸の土城洞は楽浪郡が設置されてより2千余年後に朝鮮総督府により楽浪郡の治所である朝鮮縣として作られたものだ。従ってこれまた日帝植民史観ではなく楽浪郡設置当時の視角でその位置を求めなければならない。
先ず西暦1世紀末頃、班固が編纂した<漢書>の ‘薛宣列伝’ は「楽浪は幽州に属している」と記録しているが、漢の国の幽州は現在の北京一帯であった。<後漢書> ‘光武帝本紀’ は「楽浪郡は旧朝鮮国であり遼東にある」と説明している。現在は満州を横切る遼河を基点に遼東と遼西に分けるが、過去の遼河は現在よりはるかに西側だった。現在の遼河を基準としても満州遼東が平安南道や黄海道になりえないことはもちろんだ。<後漢書> ‘崔駰列伝’も「長岑縣は楽浪郡に属しているが遼東にある」と書いている。古代のどの史料も楽浪郡を韓半島内陸だとは書いていない。楽浪郡の位置について最も多くの情報をあたえる史料は<史記> ‘夏本紀 太康地理志’ だ。「楽浪郡遂城縣には碣石山があるが(万里)長城が始まる地点だ」という記述だ。この史料は楽浪郡に対して遂城縣,碣石山,万里長城という3つの情報を与える。この3条件を満足させる所が楽浪郡地域ということだ。韓国の主流史学界はこの遂城縣を黄海道,遂安と規定している。イ・ビョンドがそのように見たためだ。しかしイ・ビョンドもやはり朝鮮総督府傘下朝鮮史編集会の稲葉岩吉が日帝時代<史学雑誌>に書いた ‘秦長城東端考:秦の万里長城の東端に関する論考)’ で黄海道,遂安を万里の長城の東端と見たことに無批判に従ったに過ぎない。イ・ビョンドの黄海道,遂安説は現在韓国史学界が楽浪郡を韓半島内陸と規定する核心理論であるのでその論理を調べる必要がある。
←大同江岸の楽浪土城。日帝により楽浪郡の治所とされたが当時も首都の場所ではないとの反論が起こった。
苦しさ自認したイ・ビョンド ‘黄海道説’
韓国主流史学界 無批判に受け入れ
“遂城県…詳しくはないが、現在の黄海道北端にある遂安と規定したい。遂安には勝覽山川條に遼東山という山名が見え、関防條に後代所築の城だが防垣鎮の東西行城の石城があり、また晋志のこの遂城県條には-とんでもない説だが- ‘秦代長城之所起’という記載もある。この秦長城説はとんでもない話だが、おそらく当時にも遼東山という名称と何らかの長城址があったためにそういうこじつけが生まれたのではないかと考えられる。誤った記事にも何らかの根拠があるということだ。 (イ・ビョンド,‘楽浪郡考’,<韓国古代史研究>)”
勝覧は<信証東国輿地勝覧>を意味するが、この本の黄海道遂安條に‘遼東山’ が出てくるので、これが碣石山であり、防垣鎭の石城が万里長城だという意味だ。遼東山がなぜ碣石山に化けたのか、また壁石城である万里長城とは全く異なる防垣鎭石城がどうして万里長城になるかは説明しなかった。論理が苦しいので ‘詳しくないが’ という修飾語を入れたのだ。晋志は唐の太宗が編纂した<晋書> ‘地理誌’を意味する。黄海道遂安を説明して突然に中国の<晋書>を引き込んだのは彼が‘遂’ 字が同じだということ以外には遂安を遂城だと規定する何の根拠もないという告白に他ならない。そこで ‘とんでもない説だが’ という非学問的修辞を用いたのだ。現在、中国社会科学院で編纂した<中国歴史地図集(全8巻)>は稲葉とイ・ビョンドの主張のとおり万里長城を韓半島内陸まで結びつけている。これが事実ならば北韓は万里長城観光団を募集し外貨獲得に出るべきだが、去る2千年間に平安道や黄海道で万里の長城を見たという人は誰もいない。中国もかわいそうなのは同じだ。楽浪郡遂城県を遂安近所と表わした以上、碣石山もその付近に描いておくべきなのに碣石山は中国で韓国の雪岳山や金剛山のように有名な山だからそのようにはできなかった。そこで万里長城は韓半島に深々と入り込ませて描いておきながらも碣石山は本来の位置のとおり河北省昌黎縣付近に表記しておいた。中国側の東北工程論理の破綻を示しているのだ。私たちは当然、碣石山がある河北省昌黎縣に注目しなければならない。
←碣石山と碣石山刻字
碣石は ‘石で刻んだ碑石(碣)’ があるという意味であるが碑石をたてた人物は秦始皇だ。紀元前1世紀に編纂した<史記> ‘秦始皇本紀’ 32年(紀元前215)條は「秦始皇が碣石山に行き…石門に碑を刻ませた」と記録している。<史記> ‘蒙恬列伝’は‘始皇が長城を積ませたが臨洮から始まって遼東まで達した’ と書き、古代歴史地理書である<水経注>は「秦始皇が万里長城を積むようにしたが、臨洮から始まり碣石まで達した」と書いている。古代中国人は碣石を遼東地域として見たのだ。碣石山付近の山海関が万里長城の東端という事実は一種の常識だ。それでは現在の昌黎縣が昔は遂城県であったかを調べてみよう。古代地名は王朝の交替によりしばしば変わるので、色々史書を追跡しなければならない。<隋書> ‘地理誌’は遂城県は11ヶぼ属県があったがその内の一つが新昌県だと書いている。新昌県は後斉の時、朝鮮縣を編入したところだ。新昌県は隋文帝18年(598)時、盧龍縣に改称されたが<新唐書>地理誌河北道條は昌黎縣が盧龍縣に属すると記述している。すなわち遂城県の属県だった新昌県が唐の時に昌黎縣となり現在まで続いているということだ。現在の昌黎縣が嘗て遂城県の一部だったという意味だ。このように‘遂城県・碣石山・万里長城’ という3条件に符合する地域は黄海道遂安ではなく、中国,河北省昌黎縣だ。昌黎縣に碣石山があり万里長城がある。ところでイ・ビョンドが楽浪郡遂城県を黄海道,遂安郡と規定するために引用した<信証東国輿地勝覧>の‘遂安郡検地沿革’ には「高麗初期に今の名前(今名:遂安)に直した」と書いている。高麗初に遂安という名前ができたという意味だ。古山子 金正浩は<大東地志>で「高麗太祖23年(940)に遂安に直した」と書いている。イ・ビョンドが楽浪郡遂城県を黄海道遂安と規定した唯一の根拠が遂字だが、それさえも高麗初期にできた名前だとして、いくら早くても10世紀以前には‘遂’字を書かなかった。イ・ビョンドはこの事実を知りながらも見ていないふりをして黄海道遂安県を楽浪郡遂城県に変身させたのだ。
大同江岸の土城洞は1913年、関野貞のような植民史学者らによって楽浪郡の治所、すなわち嘗ての朝鮮県とされたが、植民史学者らの間からも反論が起こった。古代首都は関防、すなわち防御施設が最も重要だが大同江岸土城は四方が開けた低い丘陵地だとして、敵の攻撃を防御できる地形ではないという反論だった。<史記> ‘朝鮮列伝’は古朝鮮の右渠王が「険しいところで抵抗した」と書いているのに大同江岸土城周囲には険しいところとは存在しない。<史記>はまた「右渠王が力強く城を守り数ヶ月が過ぎても陥落させることができなかった」と書いているが、大同江岸土城は半日守ることすら難しいところだ。しかし、こういう疑問は意図的に無視された。朝鮮総督府の意図は楽浪郡の実際治所を探そうというのではなく韓国史の開始点を中国の植民地とすることだったためだ。従って朝鮮総督府は1915年<朝鮮古蹟図譜>を発刊し、この地域を楽浪郡太守が勤めた治所として確定した。そのような大同江岸土城は東北アジア歴史財団のホームページに見るように韓国主流史学界によって今日も ‘正しい歴史’ として主張されている。
ハンガラム歴史文化研究所長