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[マガジンesc] 家柄の良いチャジャン麺(炸醤麺), 味も奥深い

原文入力:2009-04-11午前11:58:28
 60年 伝統‘を誇る巨済島と済州道の中華料理名家を訪ねる

コ・ナム記者,パク・ミヒャン記者,ホ・ホジュン記者

←左から天和園三鮮チャンポンは淡泊だった。天和園三鮮チャジャン.

バレンタインデーは菓子業者の広告戦略にすぎないという批判を受けてきた。公正貿易チョコレートをやりとりしようという動きが代案として議論される。それでは ‘政治的に正しい’ ブラックデー(4月14日)は公正貿易小麦粉と海産物とで作ったチャジャン麺を食べようというのはできるだろうか? 不幸にもこれはまだ不可能だ。‘作った人の歴史と文化を知って食べよう’という程度ならどうだろうか。すでに美味しい店がたくさん知られたソウルを離れ、地方で水準の高い食べ物を作る二世代以上にわたって長く続いている中華料理店を探し回った。食べ物コラムニストイェ・ジョンソク漢陽大経営学部教授が慶南,巨済の‘天和園‘と済州道の‘原徳盛園’を推薦した。

淡泊さの秘密はきれいな厨房? 巨済島 天和園

ユサンスルは漢字で溜三絲(リュサムサ)と書く。三絲は‘3種類の千切りに刻んだ材料’を意味する。ナマコ・竹の子・豚肉などの材料を千切りに刻み湯がいた後、薬味で炒める料理だ。ソースはオイスター ソース,溶き片栗粉,ニンニク,醤油などで作る。ここまでが公式調理法だ。しかし去る3日に味わったペ・ヨンジャン(62)コック長の溜三絲は材料は似ていたが溜三絲だと呼ぶべきかどうか迷った。天和園は巨済,長承浦港のすぐ近所にある。彼が作った溜三絲は海の味がよかったが塩辛くも甘くもなかった。‘淡泊な中国料理’を形容矛盾だと考える人がいるならば、是非食べさせてあげたかった。

←天和園ペ・ヨンジャン コック長が料理する様子

“ここ店始めたのは1951年度…. 1・4後退の時に来たからねー。北側で生まれて…. 華僑だけどね、ウン。北側の咸興でさ。父親は山東. 山東に親戚がいますよ。私たちが来た時は祖父まで一緒に来たんです。料理は私が時々学生時代に(父親を)手伝うくらいはしましたかね。当時はそんなものでしたね。料理は本格的に22才からしたかな?”
彼の流ちょうな巨済方言は華僑という個人史と似つかわしくないように思えた。19世紀末に韓国に初めて入ってきた華僑は日帝強制占領期間に貿易業を支配していたようだ。解放空間の繁栄は長くは続かなかった。朝鮮戦争が勃発し、ペ氏と同僚華僑数百人は巨済まで疎開した。華僑の仲間たちが釜山に移った時、ペ氏家族だけは巨済に残った。父親が亡くなった1970年、現在の2階建て建物を新築した。それ以降、ペ氏は長承浦港を眺めながら海産物を炒め麺をゆで続けた。その厨房の窓からは長承浦港が見える。

おいしい食べ物を食べようと行ったのに彼には申し訳なかった。1960~80年代、韓国人よる華僑抑圧は想像を絶するものだった。外国人土地所有禁止法で華僑は苦労した。60年代初め、朴正熙政権が貨幣価値を切り下げする貨幣単位の変更を断行した。理論上では額面が変わるだけだが、実際には購買力が下落した。大部分の財産を現金で保有していた華僑たちが最も大きな被害を被った。

人生の傷跡を思えば辛く塩辛い食べ物が出てくると思うが、チャジャンも淡泊だった。油をあまり使わず、何よりも人工的な甘みがなかった。三鮮チャンポンはさらに淡泊だった。普通の中国料理店が出すチャンポンと違い、唐辛子油なしで海産物の出し汁だけでスープを作る。爽やかですっきりしていた。淡泊な食べ物はきれいな台所から出てくるようだった。3坪余りの台所は隅々まできれいで、この頃流行しているオープンキッチンのように料理する姿が全て見えた。ペ コック長はお客さんの視線を若干楽しんでいるようだった。恥を省みず溜三絲とチャジャン・チャンポンをみな飲んだ。ソウルへの帰途にも胃がもたれることもなかった。彼の料理は長承浦港のように淡泊だった。

◎天和園:(055)681-2408.慶南,巨済市,長承浦洞232-29。9時まで営業。

巨済=文 コ・ナム記者dokko@hani.co.kr・写真パク・ミヒャン記者mh@hani.co.kr

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済州道 チャジャン麺の別名, 原徳盛園

西帰浦で生まれ育った記者には‘チャジャン麺=徳盛園’だった時期があった。小学校通っていた35年前、徳盛園は憧憬の対象だった。だが、人生がカサカサしていた時期のために徳盛園のチャジャン麺は‘絵に描いた花’だった。

取材に出る前に西帰浦に縁のある先輩2人に徳盛園に行ったことがあるか質問をしてみた。一人は「徳盛園チャジャン麺がとても食べたかったが、ふところが不如意で食べられなかった」という返事であり、比較的裕福に生きた別の先輩は「家族行事の時には徳盛園でチャジャン麺を食べた」と言った。

西帰浦市民たちにとって徳盛園は ‘市民中華料理店’ の名に値した。中・高校時期の友人どうし‘賭けサッカー’をしても渇望した若い腹を満たそうと行く所は徳盛園だった。友人との約束場所も徳盛園を基準とするほどだったから。40代以上の西帰浦市民の中で徳性院を知らなければ西帰浦出身でないという話だ。

この徳盛園が60周年を迎えた。原徳盛園(徳盛園本店)社長のチョ・オクヘ(40)氏によれば、祖父が日帝強制占領期に済州道に来て定着し、1945年済州市に小さなチャジャン麺の店を開いたという。そうするうちに1950年に西帰浦に越してきて、当時の西帰面で最も繁華街だったソルドンサン通りに居を構えて‘徳盛園’という看板を掲げ父親(ワン・ポグアン)が一生涯経営し4年前に長男である現在のオクヘ氏に譲った。

ワン社長の叔父も西帰浦で‘徳盛楼’を長く経営した。徳盛園は道路を拡張し、三一ビル前に移り、10余年ほど営業した後に再び昔の場所で営業し、2005年10月にすぐ後方に3階建ての徳盛園の建物を建てた。西帰浦市,中文洞には二番目が2号店を、,済州市,一徒洞 には三番目が3号店を出した。

←原徳盛園 蟹チャンポン

取材で去る5日に訪ねた徳盛園は昔の徳盛園とは比較にならないほどきれいで、ユニホームを着た従業員たちがこまめにお客さんに料理を出していた。桑田碧海はこのような時に使う言葉ではなかったか!

ここの‘蟹チャンポン’が有名だという。チャジャン麺で有名な中国飲食店と思っていたが、‘チャンポン’でもなく‘蟹チャンポン’だとは。他の店にはないメニューが登場した理由を尋ねた。「ワタリガニを家でよく食べたけれど、味がよくメニューとして開発してみようと思った。」こうして生まれた蟹チャンポンが人気メニューの席を占めて10年になった。

蟹チャンポンは各種の海産物と一緒に茹でたワタリガニ スープを使ってゆっくり煮込んだワタリガニ一匹を食べやすく切って入れてある。一般のチャンポンが真っ赤なのに比べて、すぐに出てきた熱い蟹チャンポンはワタリガニを入れたせいなのか泡が立って赤い色が薄い。

濃厚な蟹の香りと共に、味噌を溶き入れた蟹チャンポンは、一般チャンポンに比べ爽やかで旨辛い。前日、酒を飲んだ酒党には深い味がにじみでて二日酔いに良く、一般人には一風変わった味に近いようだった。だが、ここの伝統メニューはやはりチャジャン麺だ。面がシコシコしていてチャジャンの香りが強く深い味なのは昔も今も変わりなかった。

「伝統がそのまま出ているのではありません。歴史が料理を作るのです。長年フライパンに火にたくさん当てたとしても、なべ底に穴が空く程度のものじゃないですか?」ワン社長の話だ。

◎連絡先:(064)762-2402.済州特別自治道,西帰浦市,正房洞474。9時まで営業、ラストオーダー8時まで。

西帰浦=文・写真ホ・ホジュン記者hojoon@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/348771.html 訳J.S