本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 「民主主義」を疑う

http://www.redian.org/news/articleView.html原文入力:2011/12/01 22:11
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

私たちにはある「理念的な無意識」がよく見受けられます。すなわち、(制度的な議会)民主主義ないし(手続き的)民主化をある絶対善と見なす傾向です。最近の韓国「主流」の見方によると、「産業化」と同じく「民主化」こそが大韓民国を北朝鮮などと肯定的に区別させる、ある絶対的な「私たちの業績」と評価されているのですが、このような支配者たちの見方をまた知らず知らずに多くの被支配者たちが受け入れるようになります。労働者たちを永久な長時間・高強度の労働搾取の構造に縛り付け、大量の不安定労働者層を作り出した「産業化」に対しては、それなりに懐疑してみるのは少なくとも進歩陣営でよくあることですが、「民主化」だけはほとんど神聖不可侵なるものとして認識されているようです。それだけ私たちは(ブルジョア社会の制度的な)民主主義の影、すなわち複雑な階級的な含意に無感覚なのです。

もちろん権威主義より(手続き的ブルジョア)民主主義の方がましだということは私も体感しております。1991年ソウルに初めて訪れた時、街でよく嗅いだ催涙ガスの鼻を突く匂いや学生寮の同宿生から聞いた警察に引っ張られた先輩たちの話やスパイ行為が発覚した「偽学生」の話等々を、私は今でも鮮明に覚えています。今は催涙ガスの代わりに氷水大砲を使っており、私がその時通っていた高麗大のような「名門大学」に引っ張られていくほどの急進活動家はほとんど残っていないのが問題ですが、とにかく運動圏の闘士でない一般人でさえ不正な権力に対して「縮こまった」りせずに生きていけるほどに、幸い(手続き的)民主化はある程度進んでいるという側面も確かにあります。1991年に財閥家の「私設喜び組」の話なら単なる噂話に過ぎなかったのですが、最近は世の中がよくなり、李鍾杰(イ・ゾンゴル)議員のように、『朝鮮日報』の方某氏について「張自然(チャン・ジャヨン)氏をして酒宴/性接待で遂に自殺せしめた「悪魔」だったと発言して訴えられても無罪になってのではないでしょうか(? idxno=23949)。もちろん財閥家は常に彼らの餌となる数多くの男女たちを自殺に追い込んでいるのですが、少なくとも国会議員くらいの身分になれば、人々を生食いしている人種たちがこの社会を支配している事実を暴露しても大丈夫なので、本当にあまりにも素晴らしき世界なのです。ほとんど先進化したようです。とにかく、苦々しい話は止めて核心を述べますと、明らかに(手続き的な)民主主義に有効な側面はあります。それを否定しようとするわけではなく、もう一つの別な側面も見ようということです。


国内で民主化の過程は約50年余り掛かりましたが(いわゆる「建国」から金泳三、金大中政権まで)、ヨーロッパでは男女差別のない普遍的な投票権獲得は、一世紀以上掛かるのが普通でした。イギリスを見るといいです。1832年の選挙法改革で男性の約12%の富裕層及び中産層のみが投票権を得、全体の成人人口の投票権保有者が約6%になりました。それが一つのきっかけとなり、1918年と1928年の二度にわたる国民大表法の採択で、ようやく財産を根拠に投票権を制限する制度が廃止され、普遍的な投票権が獲得されました。ほぼ一世紀くらい掛かったことになります。もちろんある面においてはこの過程で投票権が「下からの圧力」で獲得された側面は大きいといえます。たとえば、1830~40年代の普通選挙権獲得運動であるチャーティズム運動は政治的な労働者ストライキのような力強い民衆闘争の手段など世界史上ほとんど始めて発見したわけです。ところが、普通選挙権は「下から勝ち取られた」側面もありますが、もう一つ別の側面もあります。第1次世界大戦からイギリスでそれまでなかった徴兵制が初めて実施されるなど、貧民までも総動員しなければならない強力な「戦時動員国家」が創出されました。この国の「順良な国民」として大陸に渡り同じ労働者・農民であるドイツ兵士たちの胸になんの躊躇もなく銃剣を打ち込む「忠軍愛国の平民」たちを、国家は作り出さなければなりませんでした。平民たちを国家と資産階級のための殺人者に作るためには、彼らに形だけでも最小限の参政権を与えざるをえず、このような観点では、1918年の「民主化」は貧しい労働者に対する「体制編入」への機制でもありました。また、彼らに最小限の「国家社会の構成員としての資格」を与えなければ、彼らがボルシェビキを「ベンチマーキング」し、彼らに4年間も殺し合いをさせた、その吸血鬼のような国家を木っ端微塵にする可能性も当時は大きかったのです。参政権を獲得し、従来の「穏健な」政党たちの宣伝の対象になり、従来の政党秩序の中に組み込まれた労働者の方が危なくないということが当時の支配者たちの目論見でした。


おそらく誰かが私に「それでは、数多くの貧民たちが投票権を獲得したことは共産党などといった反体制闘争団体に有益ではなかったのか。彼らはなぜ手続き的な民主主義を通して体制との戦いを挑み体制を平和的かつ本格的に変えることができなかったのか」と問いただすことでしょう。まあ、第一次大戦の終了とロシア革命による急進化の波に乗り、1922年に二人の共産主義者が最初にイギリスの国会議員になったりしました。問題は何かといえば、いくら「民主化」された国であろうと、それが資本主義国家である以上、体制の本格的な変化を追及する人々には絶対に甘くないのです。イギリス共産党の場合は、1926年のゼネスト時に「騒擾煽動罪」に問われその指導者12人が監獄に入れられたりするなど、あの 「紳士的」な国イギリスであらゆる弾圧を味わってしまいました。しかし、問題は監獄行きだけなのでしょうか。「モスクワのスパイたち」とするあらゆるブルジョア新聞の終りの見えない誹謗戦、学校や教会での反共主義的な洗脳、共産主義者たちを最悪のライバルとみなしその排撃に総力を傾ける保守化した組合の官僚たちの悪質な妨害……形式的な民主化が百回成されても、もはや保守化した資本主義社会における「急進分子」たちはいくら「沈黙する大多数」の客観的な利害関係を標榜するとしても、絶対に支配者たちの理念的なヘゲモニーの鉄条網を潜り抜けることはできないのです。逆に、その「急進分子」たちは(議会)民主主義秩序に積極的に参加すればするほど彼ら自らが保守化への道を歩むことになり、外の社会に同質化してしまうのです。


たとえば、日本共産党を見てみましょう。1950~55年間、すなわち第6回全国協議会まで武装闘争路線を採用したものの、その後は(手続き的な)「自由民主主義」を受け入れ各種の議会進出をひた走るようになったわけですね。その結果は?1972年に491議席ある国会に38人の議員を送り込むなど、かなり可視的な「有意味な政治的マイノリティ」の位置は獲得したものの、その代わりにあきらめざるを得なかったのは一つや二つではありませんでした。武装闘争期に生死を共にしていた在日朝鮮人などの種族的マイノリティへの関心をほとんど捨象し、組合での慣例化した春闘などに安住することで、より攻勢的な闘争を諦めてしまい、1960年代末になるとソ連や中国共産党との関係も極めて緩くなるなど、「世界」への関心もほとんど失ったかに見えます。結局、平和憲法死守などの「民主主義守護」と福祉予算増額などの制限的な(現体制下の)再分配の問題に沒頭するあまり、より本質的な社会改革への欲望を捨ててしまったのです。これに失望した新左翼が共産党を捨てて独自な道を歩むようになったものの、新左翼の場合は共産党ほどの大衆性さえもなかったため、結局大衆から遊離した立場でごく少数が英雄主義、冒険主義に走ったりし、その革命的なエネルギーを効果なしに消尽させてしまいました。共産党と新左翼の分裂は日本の進歩運動における一大悲劇だったのですが、その分裂の原因はあくまでも共産党の現実追随、革命性の喪失にあったと言わざるをえません。(手続き的)民主主義への積極的な参加は、このように嘗ての革命家たちを馴致させるのです。


私たちが今手にしている(議会)民主主義は極めて保守的で足りないものです。職業政治家たちが企業からの莫大な政治資金を利用し有権者たちにその政治的な「商品」を「販売」し、その「販売」が成功して「金バッチ」を付けさえすれば、職業官僚、企業人たちと一つになり従来の体制を既得権層の利得のためにそのまま運営するのは、多数のための民主主義とはとても考えられません。このような議会民主主義を急進的な政治的宣伝、民衆の生活改善闘争などのために制限的に利用することもできるが、社会主義者としては今日のような「民主主義」に絶対満足することはできません。真の民主主義は、まず搾取者側の選挙歪曲(政治資金贈与など)の完全な遮断を意味し、次は何よりも熟練工程度の報酬を受け取り一切の特権のない、いつも有権者により召還可能な民衆の代表者たちが常に有権者たちの監視と牽制、指導を受け、有権者たちの利害関係を忠実に行う制度を意味するのです。今はそのような真の民主主義は夢のまた夢のことであり、私たちが通常民主主義と呼んでいる現制度は「似非」の品物にすぎないのです。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/39181 訳J.S