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[朴露子ハンギョレブログより] 宿題撤廃の革命!

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原文入力:2011/09/29 22:07(3665字)


朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学


今朝赤ん坊の子守をしながら我が赤色党()の機関紙をちらちら眺めたりしました。今号で私に最も興味深かった記事は機関紙の末尾に載った赤色党青年組織(http://sosialisme.no/)の長であるイベール・オステボール同志(Iver Aastebol、指導部の紹介はここです: http://sosialisme.no/organisasjon/sentralstyret/)の「宿題撤廃論」でした。実は宿題撤廃は今この組織の最も重要な当面の課題であり、宿題撤廃のために学生たちのデモを組織したり、たった今(2011年9月26~30日間)宿題撤廃のための全国的な学生たちの同盟休学、すなわち盟休も組織しています。盟休参加とは一時間の授業参加拒否と宿題撤廃のための署名などで構成されていますが、今参加の意思を明らかにした学生たちは700校44万人とのことです(http://sosialisme.no/nyheter/2011/09/700pameldtleksestreik/)。私が今朝興味深く読んだ記事はまさにこの運動の理論的な裏づけに当たるものですが、その論理も整然としているし、国内ではあまり論議されていない部分なので、ここで一度論じてみたいと思います。

赤色党青年組織の立場では、学生は基本的に学習労働者です。学生に義務的な学習労働を強いる「学校」という機関は資本主義体制下で①少年少女、青年たちに権威と権力に習慣的に従う柔順な心身を養うように導くなど、親体制的な方式で未成年者たちを社会化し、②学習労働を通して学生たちをして 与えられた課題を指示どおりに遂行できる時間厳守などに慣れた労働者予備軍に編成させ、③成績を媒介に児童各自の階級的な身分上昇の限界を規定する所です。言わば学生たちは「学習工場」の労働者になるわけですが、ノルウェーで労働者は一日8時間の労働を終えたら一応休息時間には職場のことを完全に忘れて日常生活を楽しむだけ楽しめば良いのです。それではどうして労働者予備軍である学生たちは、大人の労働者たちと違って自由時間までも学習労働に費やさなければならないのか、ということが「宿題撤廃論」の法的な根拠です。社会主義者の立場では、宿題とは学習労働者の個人的な時間さえも「学校」という体制の機関が無断で侵犯し植民地化することにすぎないのです。とはいえ、児童たちの個人的な時間を植民地化することは宿題だけでしょうか。体制の論理を最も立体的なやり方でそれとなく伝えるテレビから、遊戯を通じて競争と適者生存の法則を自然に学ぶコンピューターゲームというソフトウェア資本の商品まで、国家と資本が児童たちの時間を植民地化しその心身を体制の規則に合わせて改造させる媒体は尽きないのです。これらのすべてが当然社会主義者たちの闘いの対象にならなければなりませんが、宿題という名前の児童たちへの暴力は公共領域で成されているだけに、その闘いはより至急必要です。


宿題は追加された学習労働としての性格もありますが、何よりも階級的な差異を作り出す機制としての性格が強いのです。告白しますと、私も毎晩9才の息子の宿題を手伝い検討してやるのに必ず30~40分は掛かります。私は精神労働をしているので、帰宅してからこのような追加労働をする余力はそれでもあるものの、試しに工事現場で8時間も煙瓦を運んで貼りつけてから子供の宿題を見てあげたらどうでしょう。疲れ果てた状態で宿題を見てあげているうちに寝てしまう可能性が高いでしょう。それに、たとえば私の妻でさえ息子のノルウェー語作文及び文法、綴り方の宿題を手伝う能力などほとんどなく、 多くの非西欧1世の移民者の父母たちはほとんどがそうなのです。結局、親の「個人コーチ」を受けながら宿題をやってきた児童たち(息子のクラスでは約3分の1くらい)とそうでない児童、特に肉体労働者、移民者家族の児童たちの間には少なからぬ「学習能力の格差」が生じてしまいます。その格差は後に成績格差につながり、その成績に従い大学入試が行われるノルウェー的な状況では人気の高い学科に進学する可能性の相違にもつながります。ノルウェー社会の上層部の多くは法学部出身たちで成り立っていますが、法学部に進学しようとすれば、成績がかなり良くなければなりません。韓国でもないノルウェーであるにもかかわらず、低熟練低賃金肉体労働者の子供が法学部に進学するのはかなり難しいのかもしれないということです。宿題を撤廃すれば、このような上流層、中流上部層の児童たちだけに与えられる「プレミアム」が消え、少しでも多く困難な環境で育っている子供たちに機会が与えられるようになります。


このような話を書けば一つの反論はすでに予想されます。子供たちの学習量を減らし皆を馬鹿に育てるつもりなのかという反論です。しかし、この部分を私たちは直視しなければなりません。学校で教える知識の実際的な実效性は極めて制限的であるため、その知識の注入が足りなかったからといって社会生活に支障を来たすようなことはまったくありません。たとえば、一般企業の社員なら仕事に関する英文の手紙を読んで簡単な英語の返信を作成する能力くらいは必要だといえますが、外国のバイヤーと口頭で交渉を行う仕事なら、おそらく一般社員ではなく外国語系統の高等学校以上の学歴を積んだ専門家を送るはずでしょう。数学の原則をある程度把握しておくのは悪いことではありませんが、計算はどうせ電卓でこなす職場では果して暗算から高等関数までどれほどの実用性があるのでしょうか。「李承晩が自由民主主義の基盤を築いた」という話をどこかで聞けば、にやりと笑って「周辺部型のファシズムを無駄に美化しているな」と寸評するほどに歴史を学ぶことも悪くはありませんが、学校で習う「年度、事件」中心の「国民」と「民族」の話の限界は誰が見ても明らかなのです。実際はあまりにも身近に感じ興味深いかもしれない歴史を無味乾燥な「教科書」に作り変え、学生たちの歴史への興味を初めから削ぐことの方が本当に犯罪だと思います。とにかく学校での勉強と私たちの実生活とはまったく異なっているため、学校での勉強の「量」を適当に減らしたところで愚民化には絶対になりません。児童たちの解放運動です。子供たちが放課後課程を取り4時半に帰宅する、「塾」という単語さえも存在しないノルウェーでさえもそうであるなら、韓国ではなおさらです。


歴史をひもといてみると、20世紀の教育大衆化の過程でたいてい教育内容の簡素化も同時に成されました。100年前のノルウェーの高校卒業者はラテン語と古代ギリシャ語、フランス語、ドイツ語までも自由自在に駆使できなければならなかったし、聖書の内容にもかなり精通していなければなりませんでした。高学歴者や家庭教師を雇うほど余裕のある金持ちの家に生まれた子供でなければ、極めて手に余る高難度のカリキュラムだったのです。ノルウェーだけでなくヨーロッパ全域はすべてそうでした。実效性は?1902年に初めてロンドンを訪れたレーニンは高校で英語を一生懸命学習したにもかかわらず、イギリス人たちの話をまったくわからなかったそうです。それでも文法を理解し読解力はあったので、それから約半年間の速成で最初からやり直したのです。今では古典言語の学習は完全に子供たちの意思に任されている問題です。ラテン文学が好きで学習しようとする人々は(ノルウェーでは十分な)余裕時間に熱心に取り組み、関心のない多数はラテン語の強制的な注入の悪夢から永遠に逃れたのです。私にはこれが一種の解放に見えます。強制される宿題よりは、子供たちには何より読書に興味がもてるように自律的な読書の指導が必要でしょう。他律的に与えられる宿題をするより本人が自発的に行う読書の方がはるかに充実した勉強になります。


もちろん特に教育競争に狂いに狂ってしまった我が大韓民国では「宿題撤廃の革命」はすぐに実現することは難しいでしょう。しかし、直ちに革命を起こすことは難しくとも、進歩勢力たちは漸次的に学習量、学習時間の減少へと教育改革の方向を変えることが必要であり、子供たちにとっても組織的な闘いを通してこの方向に進むことを手伝うことが望ましいでしょう。1920年代の朝鮮では同時代のノルウェーより学生たちの盟休がはるかに熾烈でした。今日のように過度の学習に押さえつけられている中・高校生たちがそのような闘いに出られないのはとても残念なことです。


原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/37869 訳J.S