原文入力:2009-03-02午後07:00:01
ハン・スンホン-山民の‘サランバン証言’ 40
1975年5月、雑誌に寄稿した文章 ‘ある調査’を口実に反共法違反疑惑で拘束された筆者が法廷に立った。前例がない弁護士の筆禍事件を迎え撃つ史上最大の129人の弁護団が立ち上がった話題の裁判だった。
1975年1月21日、二晩に及ぶ徹夜(眠らせないこと)調査は私の体力で耐えることは大変な拷問だった。しかし私はよく持ちこたえた。 そして三日ぶりに解放された。無理強い操作に対抗して私の言うべきことをすべて言って出てきた。
体は捕らえられて通いながらも、することはしなければならなかった。広告弾圧を受けていた<東亜日報>の激励広告寄付集めは続けたし、自由実践文人協議会の‘文学165人宣言’発表現場にも出て行った。
ところが3月14日、キム・ジハ詩人が反共法違反で再び拘束される事態が起きた。彼は民青学連事件で服役し2月17日刑執行停止で釈放されたが、ある日刊紙に‘人民革命党事件操作’うんぬんの寄稿をしたと出監27日でまた拘束されたのだ。私は数人の弁護士と相談し弁護団を作りその弁護人選任契を直接ソウル地検に行って提出した。普通文書提出は事務長が行うが、ひょっとして何か問題でもできればわけもなく事務長が苦しめられるかと思い私が直接持って行き提出したのだ。
昼間放送でキム・ジハ弁護団構成ニュースが流れた直後、‘中情(中央情報部)’から電話がかかってきた。出てみるとキム・ジハ弁護人を辞退しろとの要求であった。私が一言で拒否するやあちらの語り口が荒くなった。それでも私は我慢して弁護士の責務に対する原則的な説明をしながら理解をさせようとした。相手はまたよく考えてみろとの威嚇的な話を残して電話を切った。その翌日また電話がきたが、去る1月反共法事件の被疑者として調査されたことを覚えているかとしながら強圧的な話をするので、私も冷淡な語調で少し短く応酬した。弁護人辞退要求は行き過ぎた強圧に違いなかった。
その翌日、すなわち3月21日夜、私はソウル市内のある集会場所で少しの間門の外に出てきて、待機していた中情車両に乗せられ‘南山’に強制連行された。そして前に調査された文‘ある調査’の容共性可否について再び舌戦を行った後、正式拘束された。問題の文を書く前にも私は生命と刑罰問題を扱った文章を書いてきたし、韓国アムネスティの死刑廃止建議文を作成するなどキャンペーンを主導したという事実も明らかにしたが何の 役にも立たなかった。
体はソウル拘置所に乗せられて行って、いわゆる入所手続きを踏んだ。青い囚衣に着替えてプラスチック食器と竹箸二つを持って刑務官について行き、彼が開けてくれた監房門内に入るや背中の方でガチャンという音とともに門が閉められた。
このようにして私の収監生活は始まった。家族の面会も書籍差し入れも全て不許可だと言った。その上独房だと思うといわゆる‘絶対孤独’それ自体であった。時間との対峙状態が私を疲れさせた。オスカー・ワイルドが<獄中期>に書いたように‘一つの長い瞬間としての苦難’,‘前進するのではなく盲目的に回転するだけの時間それ自体’と向き合わなければならない運命が始まった。
ある日、夜遅い時間に完全に閉房になった後なのに人の気配がして房門側を見ると、誰かがプラスチック食器を押しこんで消えた。その中には牛乳にまんじゅう二つが浮いていた。何かミステリー小説のようなことだった。夜が明けた後に知ることになった事実だが、同じ舎棟の端にいた死刑囚が私の疑惑、すなわち死刑廃止を主張する文を書いて捕えられてきたことを知って感謝する意味でその食べ物を送ってくれたとのことだった。私の文一つで自分の運命が変わるわけでもないのにそのような好意を表わすとは、私は粛然としてしまった。
←ハン・スンホン弁護士
検事の被疑者尋問は拘置所内で受けた。検察後輩の調査を受ける心情は話にもならなかった。検事は礼儀を払おうとしながらも思いがけないほど‘強硬派’でついに起訴になった。弁護人を通じて外での救命運動の消息を聞くことができた。大韓弁護士協会,韓国文人協会,国際ペンクラブ韓国本部,韓国キリスト教教会協議会人権委員会,韓国記者協会,木曜祈祷会,自由実践文人協議会などいろいろな所で陳情文書を提出してくれた。それだけでなく日本各界要人400人が署名した嘆願書と1次弁護団104人(後日には当時では史上最大の129人)の意見書も提出された。東亜日報は私の拘束を批判する社説をのせたかと思えば、国際アムネスティでも私の釈放運動を行った。
公判は4月8日に始まり計十一回開かれた。検察拘置所から法廷へ行く町角には数多くの弁護人たちが立ち並んで私を励ましてくれた。傍聴席は家族・知り合いの他にも各界の色々な要人、そして民主化と人権のために努める色々な機関・団体関係者たちでいつも満員なので私に大きい慰めと力になった。
ハン・スンホン弁護士