原文入力:2011/04/08午前01:10(4197字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
今回の全米アジア学会で私が最も関心を惹かれたのは北朝鮮の初期史に関する報告でした。中でも特にラトガース大学(Rutgers University)のスージー・キム(Suzy Kim)先生の話は大変興味深いものでした。有名な修正主義歴史学者ブルース・カミングス(Bruce Cumings)の弟子である彼女は、1945~1950年の北朝鮮における大衆の組織活動の状況を分析しました。主な資料の一つは、アメリカの国立公文書記録管理局に保管されている、いわゆる「捕獲文書」、すなわち米軍が北側地域を侵攻した際に無断で略奪し持ち帰った北朝鮮の官公署の文書です。スージー・キム先生は、一つの例として「捕獲文書」から彼女が捜し出したある農民の入党申請書と自筆の履歴書を提示しながら分析されました。文盲で小作農だったその農民は、まず北朝鮮の建国初期の土地改革により小農へとその地位を上げてから、ハングルを習い、マスターした後は農民組合連盟に加わり、熱誠者として積極的な組職生活を始めたそうです。文字を知らない無学の小作農として社会生活から排除されがちだった彼は、建国初期の数年間に堂々と公共の領域に足を踏み入れ、小さいながら大きな一人の「歴史の主体」になり得たということです。この農民の運命はその後どうなったのでしょうか。米軍の容赦ない爆撃で殺されたか、6.25動乱の激戦中に非業の死を遂げたか、はたまた幾多の親友や血縁たちを失ったあげく劇的に生き残ったか、私たちにはわかりません。一つ確かなことは、彼や彼のような無数の植民地時代の周辺分子たちに北朝鮮の「現実社会主義」が公共領域への関門を開いてやり、彼らが公共的な主体としての「個人」になることを可能にしたことです。もちろん、この公共領域はあくまでも党の統制を受ける、自律的ではない公共領域に他なりません。しかし、しがない搾取の対象者から一躍小さな「国の主人」へと転身した幾多の民草たちは、場合によっては利害衝突はあり得ても大局から見て党の統制に反対するはずがありませんでした。真の(そして初期にはかなり肯定的な)意味での「合意独裁」が可能な状況でした。
1960年代初頭の「主体思想」の宣布や極端なナショナリズム、個人崇拜の蔓延以前の北朝鮮は、大きく見て東欧型「現実社会主義」の一つでした。この「現実社会主義」に対する批判は概して二つに分類できます。極右派から穏健社民主義者たちまでが「全体主義」と規定される「現実社会主義」社会における「個体性抹殺」「全体性の横暴」「牽制されない国家暴力」「社会・政治的多様性の不在」などを挙げ、否定的な評価を下す傾向があります。一方、国内で「ダハムケ(All Together)」に代表されるトロツキー主義者などの急進左派は、「スターリン主義」(現実社会主義)社会における労働者の民主主義の不在や平等性の崩壊、官僚層の独裁、そして革命性の衰退を挙げ、「社会主義の官僚主義的な歪曲」から「国家資本主義への転落」までを取り上げつつ「社会主義ではなかった」と切り捨ててしまいます。面白いことに、この二つの否定的な見解はある場合は一つに統合されたりもします。たとえば、アメリカのトロツキー主義の元老の一人マックス・シャハトマン(Max Shachtman, 1904-1972)はソ連を「集体主義的官僚国家」と捉える観点から出発し、まもなく資本主義より「スターリン主義」側を社会主義運動においてより危険な敵と見做すようになりました。晩年には右派社民主義者に転身し、今度はベトナムからの米軍撤収に反対するほどにまで「現実社会主義」に対する憎悪を燃やしました。もちろんトロツキー主義の理論家の中には「現実社会主義」の国々の社会主義的な本質を認めるエルネスト・マンデル(Ernest Mandel、1923~1995)のような人々もいますが、彼らも「現実社会主義」の長所よりはその「官僚的歪曲」の側に重点を置いていました。
これらすべての批判は必ずしも誤ったものではありません。社会主義を「ユートピア」と捉えるなら、「現実社会主義」は明らかにそのような「社会主義」からは程遠いものでした。一応、1917年10月革命後にトロツキー派などの急進派たちに対する官僚的保守派(スターリン派)の勝利に基づいた「現実社会主義」の秩序は確かに硬直した官僚性を特徴としていたことは事実なのです。労働者たちのソビエトがレーニンの元々の計画どおり「下から」自律的に経済企画を作り、コンミューン型の「国家ではない国家」を民主的に運営したと言うよりは、位階的な党中心の秩序の下部構造に組み込まれてしまったといえるでしょう。また、世界革命の挫折により資本主義世界と軍事対立せざるを得なかった「現実社会主義」は国民(「人民」)国家的秩序を強固にし、かなりのレベルの軍事化を推進せざるをえませんでした。常備軍そのものを廃止し労働者たちによる自律的な民兵隊に替えるべきだとするヨーロッパ社会主義運動の元来の理想に照らしてみれば、甚だしく後退したことになります。資本主義世界に壊滅させられないためにあがき、極めて急激な工業化を進めなければならなかった「現実社会主義」は、特に超高速の工業化過程(ソ連の1930年代初頭~1950年代初頭)で資源を動員するために国家による暴力がかなり行使されざるを得ない状況に置かれました。実際、あの悪名高きスターリンの大粛清は概して国家による超高速工業化過程で生じた政治的な派生物と見なければならないでしょう。熱情と恐怖の入り混じった雰囲気がなかったなら、10年間のファシスト・ドイツとの大戦争で負けないほどの工業基盤を築くことはできなかったでしょう。急進派(トロツキー派など)が勝利したら、おそらく恐怖より熱情の割合は遥かに高かったでしょうが、私たちはユートピアではない現実世界に生きる存在なのです。極めて保守的な農民たちの国家ロシアでは、共産主義をほとんど「宗教化」させたスターリン派の勝利は遥かに容易く自然なものでした。右派たちの唱える「現実社会主義」の「集団主義的」側面も、実際はこのような農民社会の伝統的な保守性に起因するものです。とにかく、革命を雲の上でやるのではなく、不完全で苦痛に満ちた現実の中でやっているだけに、後退や屈曲、自己背反のない革命はあろうはずもありません。「現実社会主義」も例外ではないでしょう。
しかし、だからといってその歴史的な経験をすべて「全体主義」ないし「国家資本主義」「集体主義的官僚国家」と決め付け排撃ばかりしていてよいのでしょうか。歴史の中の(多くは避けられなかった)歪曲は当然指摘し批判しなければなりませんが、「現実社会主義」の歴史を「歪曲」とのみ捉えることは困難です。たとえば、労働者たちが「下からの民主主義」に基づき国家を統治したと捉えることはできませんが、彼らの相対的な地位が高まり、高等教育から休養所などの休養施設への接近までもが容易くなり、労働の疎外から遥かに自由だったことも事実です。1950~60年代を回想する中国の労働者たちの声(ベク・スンウク編『中国労働者の記憶の政治』ポレテイア、2007)に耳を傾けてみると、当時は明るい笑顔で出勤し、工場を我が家のように思うことはほとんど当たり前でした。「国家からの労働の解放」は成されなかったものの、少なくとも工場単位の利潤追求、個人資本家の所有からの解放が成し遂げられ、労働者の状況が大きく改善されたわけです。「現実社会主義」の学校は権威主義や軍事主義から完全には解放されなかったことは事実です。事実、文化革命の際の紅衛兵による教師や校長のリンチ事件の多くは教権主義的な態度への「復讐」のような性格をも帯びていました。しかし、体罰のような弊習は一応完全に消え、また露骨な成績競争より相互協力が優先される雰囲気の中で、「勉強のできない労働者出身」らは少なくとも韓国のような「超資本主義的」社会に比べ、遥かに傷付かずに済んだのです。筆者の記憶では、筆者の通っていたクラスでは筆者を含む「優等生」たちは勉強のできない子供たちの宿題を手伝い面倒を見ることが慣例でした。まあ、成績への目に見えない意識から間歇的な(児童間の)暴力まですべて存在したのが筆者の憶えているソ連末期の学校の風景だったとはいえ、体罰から修能(大学修学能力試験)テスト地獄まで正常なところなど一つもない同時代の南韓の学校と比較できるものではないでしょう。そのため、「現実社会主義」とは確かにユートピアではなかったものの、少なくとも人間がそれなりの尊厳と矜持を保ちながら生産的に、わりと平等な環境で生きて行ける社会だったことは間違いありません。
北朝鮮は「正統な現実社会主義」より極めて硬直した、遥かに儒教的で軍事化した社会に進んだ一方、キューバなど一部の例外を除いては「現実社会主義」は資本化を追い求める内部の官僚勢力により崩壊してしまいました。しかし、東欧の労働者たちが「現実社会主義」の自滅を食い止められなかったからと言って、その長所までを私たちは果して忘却しなければならないでしょうか。かなり歪曲はされたものの、少なくとも人間が自分の笑顔を売ってまで上司に常に媚びながら生存をはかる必要はなかった社会、すなわち個人の疎外が今日の資本制に比べ遥かに少なかった社会を私たちが真剣に記憶し、そのあり方をしきりに復元し語り続けなければ、私たちの闘いに力を添えることはできません。歪曲された面を繰り返す必要はありませんが、「現実社会主義」の肯定的側面の復活はこれからの全世界の社会主義者たちの闘いにおける重要な目標の一つになるのではないかと思います。ということで、私はこれから時間が許す限り北朝鮮の初期史の勉強に取り組みたいと思います。一面においては韓半島の20世紀の最も記憶しなければならない、と同時に最も忘却させられた時代ではなかったかと思うからです。
原文: 訳GF