原文入力:2011/03/24午後11:17(2984字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
私は歴史家です。過去の事実を体系化し言語化して、「集団記憶」として組み立て流布させることが私の職業です。私のように、100年前の新聞を愛読する非正常人たちが消えてしまえば、そこで繰り広げられていた愛と憎悪、情熱と裏切り、支配者の私欲と民衆の痛みや抵抗などもすべてどこかに蒸発してしまいそうなので、私は自分の職業にそれなりの愛着を持っています。とはいえ、歴史に関しては一つだけどうしてもいたたまれない気持ちを常に抱いてしまいます。「歴史の教訓」などといった言葉はほとんど慣用句のようになっているものの、実際のところ、特に支配者たちはこの「教訓」についてはあまり関心がないため、歴史は -少しは形を変えつつ- 常に繰り返されているのです。単に「繰り返されている」というより、すでに固定されてしまったある形態、あるパターンなどはどんなに時代が変わろうが、変わることのない「生命力」を維持しているということです。私たちの大好きな「進歩」がまったくないということではありませんが、その程度は私たちの期待に比べてあまりにも些細に見える代わりに、その対価はあまりにも高く、また従来のパターンの反復性がはるかに目立ちます。そのため、梅泉黄玹(ファン・ヒョン、1855~1910)先生の言を少しだけ変えて言えば、「歴史を知る人間は生き辛くなる」ということになります。
遠くに目を向けるまでもなく、我が海東で起きた怪事を例に挙げてみましょう。たとえば、先日起きた「資本主義研究会」事件がそれです。主体思想でもなく、この大韓民国の国是ともいえる資本主義を研究するという一群の在野の人々や青年たちが、突然「北朝鮮をほめたたえる利敵団体」に化け、まさに獄中の身となりました。資本主義が国是の国で資本主義研究をすれば直ちに利敵、すなわち敵を利する犯罪者になる。まあ、この程度になれば私たちはもはや朝鮮民主主義人民共和国にほとんど追い付き追い越し始めたと言えるでしょう。国家保安法のおかげで向こうに自由に行くこともできない小生に 詳細なことが分かるはずもありませんが、聞くところによりますと、向こうでも主体思想研究会や社会主義研究会を勝手に作り、国是を「恣意的に」解釈すれば社会の管理者たちにひどい目に会わされる確率はかなり高いようです。まあ、現政権は非常に高次元的な統一への意志があってのことか、南北韓の社会政治体制の同質化に渾身の努力を払っているようです。ところが、実際 こちらの土建/輸出第一主義者たちはあちらの朝鮮民族第一主義者たちをわざわざ真似する手数を掛けるまでもありません。前者は日帝という母胎から米軍という産婆に助けられ生まれたものであり、後者の系譜はより複雑ですが、日帝と死闘をしながら日帝から学んだところも少なくありませんでした。どうりで、あちらもこちらも根本的に1925年5月12日から日本列島と台湾、韓半島全域で初めて施行されてから、実際に韓半島で常にその魔力を発揮してきた治安維持法の陰で未だに生きているわけです。「国体の変革を目的として組織された結社」なら最初から「非国民」、有無を言わさず獄に入れてもかまわない、人ではない人と見なされるのです。南韓ならば、「国体」の要諦は日帝時代と同じく「私有財産制」であるため、治安維持法の文言通り「私有財産制を否定する行為」は無条件に処罰の対象になります。今回の事件から分かるように、あえて「否定」せずとも「否定を目的にするような研究」をしただけでも すでに処罰の対象になっています。まあ、総督府警務局の人々が今現在 大韓民国の誇らしい保安機関などのやっていることをあの世で見ていたら、おそらく拍手をしていることでしょう。「これぞまさに国敵の取り締まり方」と言いながら。
治安維持法のような、支配者たちに緊要な道具は決して死にません。風とともに去ったかと思えば、直ちに風とともにまた帰ってきます。あまりにも立体的な姿をして。もちろん若干の「進歩」がないわけではありません。資本主義を研究したということで大韓民国の保安機関の現状を現地調査(?)することになった不遇な「国敵」たちは、おそらく警務局時代に比べれば ややましな扱いを受けるでしょう。少なくとも拷問に掛けられ気が狂ってしまう確率はかなり低くなりました。いたたまれずに精神病を発症する確率はあまり変わらないかもしれませんが。また共産主義者の拘禁のニュースを伝えた1920年代の『朝鮮日報』よりは(信じてもらえないと思いますが、その当時は『朝鮮…』の方が『東亜…』より左翼的でした!)今日の『京郷新聞』は今回の「国敵取締事件」をもう少し大胆に扱う自由まで手に入れました()。1929年に西大門刑務所で拷問死させられた車今奉(チャ・グムボン、1898~1929)同志のような不屈の共産闘士から金南柱(キム・ナムジュ、1946~1994)詩人、朴鍾哲(パク・ジョンチョル、1964~1987)烈士までの、数え切れないほどの多くの志士たちの命と健康と引き換えに手にしたものがまさにこれなのです。拷問はほとんど消えており、ほんの一部ではあるものの、新聞らしい新聞が報道らしい報道をする自由を得たわけです。ということは、治安維持法そのものを歴史のゴミ箱に完全に捨てるためには果して歴史の残酷な女神にどれだけ多くの人々をいけにえとして捧げなければならないことになるのでしょうか。どれだけ長い間、どれだけ多くの人々がキャンドルを持ってデモに参加し、放水車、水大砲に撃たれ棍棒で倒れ警察の長靴に踏まれなければならないことになるのでしょうか。まことに苛立たしくなりはしませんか。
支配者たちの職業病というものがあります。忘却症です。歴史がすでに進歩したという事実をなるべく忘れようとし、常に「やりやすい」昔の方式に戻ろうとするのです。まったく異なる脈絡から出た言葉ではありますが、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade、1907~1986)の表現を借りれば、「永久的な帰還」への傾向があるということです。ただ今19世紀末の軍艦外交のレベルに再び転落し リビアを空襲している西欧列強の退行的な行動を見ても何を意味するのかはおそらく分かるでしょう。「あの時代」との相違は、艦砲の代わりに爆撃機を使っている点くらいでしょうか。その「永久的な帰還」、持続的な昔のパターンの反復を阻むためには、立ち上がって叫び、反対し、踏まれるだけ踏まれたら、再び立ち上がり叫び続けるしか方法がありません。とても苛立たしいことですが、これが歴史から引き出せる最も貴重な教訓ではないでしょうか。