原文入力:2009-02-03午後11:18:47
‘龍山撤去民惨事’に対する検察捜査が心配された通り、誤った方向に急進展している。検察は篭城者などがばら撒いたシンナーに火炎瓶の火がついて惨事が起きただけで警察には刑事責任を問いにくいという暫定結論を下したという。過剰鎮圧ではないという警察主張もそのままに受け入れるようだ。最終結論までそうなれば人を6人も死なせたことを正当化するために検事数十人を動員した格好になる。
検察捜査に合わせて与党も言葉を変えている。惨事直後には警察首脳部引責論が盛んだったハンナラ党は突然に‘左派’非難に走った。当初、警察による鎮圧を“無理な対応”と批判したある最高委員は一昨日、過剰鎮圧責任者辞退の主張を“反政府勢力の体制転覆の試みだ”と主張した。キム・ソクキ警察庁長官内定者の辞退を主張した院内代表も“政権打倒を叫ぶ反政府勢力”云々して手助けした。警察庁長官内定を撤回する意志がないというイ・ミョンバク大統領の話の後にそうした‘アカ論’が出てきたので、その意図が火を見るように明らかだ。法的にはもちろん政治的にも責任を負わないという意味のようだ。亡者のくやしさと国民の衝撃をなだめられなくとも政略的攻勢で苦境をまぬがれようとするそのずうずうしさが驚くべきだ。
こういう形態については‘野蛮’以外に称する言葉がない。人がそのように亡くなり負傷もしたというのに、謝ったり責任を負う人が誰もいないならば今後もそのようにするという意だ。そのように国民の生命を何とも思わないのがまさに全体主義であり独裁だ。ナチスドイツなどは法律違反者に対しては正常な司法体系の代わりに暴力的な国家物理力を動員した殺人を行っても関係ないという態度であった。警察が龍山撤去民たちの火炎瓶抵抗動画などを広報するのも同じ脈絡と見えて恐ろしくならざるをえない。
検察までが法論理を動員して、こういう野蛮に力を加えてはならない。法的に見ても今回の惨事では警察に過失の責任を問うのが当然に見える。撤去民たちはもちろん警察自身の安全対策もまともに用意できなかった危険な過剰鎮圧を正当化する名分はどこにもない。 鎮圧を承認しタイムリーな報告まで受けたキム・ソクキ内定者などに注意義務を果たせなかった責任を問うのも当然だ。それでも検察が政権の思惑通りに免罪符をあげるならば、不公正・わい曲という非難を逃れることはできない。検察の信頼が今回の事件にかかっている。