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[特派員コラム] 故キム・ヒョンユルを考える

原文入力:2010-05-20午後08:12:11(1663字)

チョン・ナムグ記者

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日本、長崎市の浦上聖堂には高さ2mの美しい木造聖母像が一つあった。1945年8月9日、この聖堂から500mも離れていないところで原子爆弾がさく烈した。信者1万2000余人の内、何と8500人余りが亡くなった。聖堂も廃虚となった。2ヶ月後、人々は聖堂残骸を片づけ、全て焼けてしまい首の上部分だけが残った聖母像を発見した。ほおが真っ黒に焼け、水晶玉でできた2つの眼が溶け落ちてしまった惨い姿だった。

‘被爆マリア’という新しい名前を得たこの彫刻像はそのまま保存され、戦争と核兵器の惨状を今も黙って告発している。今月初めには原爆を投下した米国にも初めて渡り、ニューヨーク聖ペトリック大聖堂で一般に公開された。その消息を聞いた時、私は故キム・ヒョンユルを考えた。

彼に初めて会ったのは2002年8月初めの釜山だった。日帝強制動員被害者たちの証言を収録しながら‘真相究明特別法’制定を訴えたこれらの全国巡礼を同伴取材したときだった。

その年の3月、自分が‘原爆被害者2世’であることを世の中に初めて公開した彼は33歳だった。ところが体重は38㎏しかなかった。一種の先天性免疫欠乏症で、すでに肺機能の半分を失った状態であった。彼は苦しい吐息をつきながら、苦しそうにインタビューに応じた。彼は原爆の近くに行ったことがない。ただ、母親が6才の時に原爆がさく烈した日本の広島にいたことが原因だった。

その頃から原爆2世問題解決のために本格的に関わり始めた彼はその後、何度かソウル<ハンギョレ>に私を直接訪ねてきて新しい資料を渡したりした。高く急な階段を一人でかろうじて歩いて上がってきた彼に会う度に、私は自分の丈夫なからだがとても恥ずかしく感じられた。

彼に初めて会った頃に比べれば、日帝強制占領被害者問題の解決はその間に大きく進展した。2004年‘日帝強制占領下強制動員被害真相究明などに関する特別法’が制定された。今年初めには国外強制動員犠牲者支援法も作られ強制動員被害者に医療費として年80万ウォンをわが政府が支給するなどの支援もなされ始めた。

しかし、キム・ヒョンユルが提起した‘2世患友’問題の解決は政府次元ではまだこれといった進展がない。

東京特派員として赴任した後、2ヶ月余りの間、私が日本から送った記事も明るくはない。日本の裁判所が日帝強制動員被害者らが出した訴訟を棄却したという便り、韓-日会談関連文書公開を日本政府が拒否し裁判所がこれを正当と受け入れたという便り、などを伝える心は重い。日本の新しい政権が何か新しい転機を作るという期待は、日に日にかすんでいきつつある。被爆マリアの外国往来も‘原爆被害者日本’を浮彫することに一層の焦点が合わされている。
しかしキム・ヒョンユルに初めて会ったその年の夏に再び戻って考えてみれば、答は意外に簡単だという気がする。日本の態度が変わることを待たず、わが政府がさらに積極的に立ち上がり、日帝強制占領期間被害者らを世話することだ。気乗りのしない日本から無理に賠償を受け免罪符をあげるよりは、真実を隠し責任をないがしろにした彼らの不道徳を歴史に長く残す方がより良い。そうするには、私たちが彼らよりははるかに道徳的でなければならない。国民を世話する国家の責任と義務を果たさなければならない。

息を殺して過ごしている‘2世患友’たちのために、生の最後の3年を燃やしたキム・ヒョンユルが亡くなって29日で5年になる。日帝の朝鮮強制合併100年をむかえる今年、彼が生きていれば‘わが国’をどう思っただろうか? 彼を考えれば今も息がつまってくる。

チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/421732.html 訳J.S