本文に移動

[世相を読む] 犬の権利と人の権利/チョ・グク

原文入力:2010-04-22午後09:14:02(1650字)

←チョ・グク ソウル大法学専門大学院教授

16世紀始めトマス・モアは名著<ユートピア>で、そして19世紀末ポール ラファルグは‘馬の権利と人の権利’という短いエッセイで、各々当時の労働者の境遇が獣の境遇よりも劣っていることを嘆いたことがある。21世紀の韓国の場合はどうだろうか。

韓国社会で犬を飼う人は非常に多い。筆者も犬を飼ったことがある。私たちの社会での人間のように、犬の内部にも‘階級’がある。‘社会貴族’が育てる超高価な‘貴族犬’が享受する豪奢は想像もできない。反面、劣悪な条件で主人に虐待される犬、主人の愛玩対象であったが捨てられた犬は‘下層階級’に属する。このような‘下層階級’の犬は私たち人間の野蛮性と非情の犠牲者だ。

こういう2つ場合を除き普通の‘愛玩犬’または‘伴侶犬’を想定する場合、私たちは2ヶに餌を与え散歩させ、入浴させて髪をとかし寝床を提供する。また定期的に動物専用美容室に連れて行き美しく整え、予防接種や各種治療をしながら安産のために帝王切開手術をしたりもする。このような世話には当然費用がかかる。人の頭を刈る費用が概略1万ウォンとすれば犬の毛を切る費用はその2~3倍だ。犬の診療費も人の診療費より高い。例えば国民健康保険公団で定めた人の自然分娩報酬は約20万ウォンだが、動物病院の犬の自然分娩費用は30万~40万ウォンだ。犬の化粧料は人の化粧料より4~5倍高い。

多くの人がこういう費用を負担しながらも犬を飼うということは、韓国社会の富の規模がそれだけ大きくなったことを意味する。また人と人の間の激しい競争と葛藤の中に疲れ、犬との交流を通じ慰労と平安を得ようと思う人が多くなったことを意味する。とにかくこういう状況で動物の権利に対する議論が広がっていることは幸いなことだ。

ところで、これと同時に多くの人がちやほやと育てる犬の境遇と、我が国社会庶民の境遇とどちらが良いのかと考えざるをえない。経済協力開発機構で最高水準の労働時間を働かなければならず、働き口,住宅,子供の保育および教育,老後などに対する心配で一日一日の人生がとても疲れてパサパサしている。求職をしようとしても非正規職やインターンの働き口だけが散在している。正規職として就職をしても構造調整でいつ職場から押し出されるかもしれない。月給を一銭も使わず全て貯蓄をするといってもアパート一戸買うにははるかに遠い。

児童保育の負担は個人に押し付けられていて‘入試地獄’は相変わらずだから子供を産むのが恐ろしい。大統領選挙時期‘半額授業料’公約はこっそりと消えてしまい、大学生の子供が2人だけいても授業料を用意するのは容易でない。‘産業予備軍’にも組み込まれない相当数の人は路上生活者となったり、箱部屋やビニールハウスに住んでいる。高齢化と家族の解体が同時に急速進行されているのに‘親孝行’だけが強調されて老人福祉は有名無実だ。

政治的民主化で数年に一回ずつ代表を直接選ぶことができるが、以上の問題を制度的に解決できないならば、その民主主義にはいかなる意味があるのだろうか。韓国社会が犬を伴侶動物として育てる負担に耐えられるように、人の構成員が人としての尊厳と基本的生存を維持できる制度を維持する負担にもやはり十分に耐えることができる。問題は成長最高・効率最高を信奉し通常人の人には自分が育てる犬が享受する福利厚生ぐらいの‘社会権’も保障しないという私たちの意識とそれにより作られた制度が問題だ。‘社会権’の保障は市民自らのため‘社会的保険’なのにということだ。いつまで "犬の運命が幸運" と繰り返し言い犬を羨んでばかりいるべきなのか。

チョ・グク ソウル大法学専門大学院教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/56/417384.html 訳J.S