原文入力:2010-03-29午後07:49:00(1606字)
←パク・ノジャ ノルウェー,オスロ国立大教授・韓国学
最近、国内消息を聞いて感じるのは一種の‘既視感’だ。放送会社 "左派清掃" を誇らしく語る前職教授(!)を見たり、政権との癒着に対する強い疑惑に沈黙で一貫するある宗教団体の指導者を見たり、かつてすでに見たような感じだ。支配者の忠臣になることに自らの自負心を示す‘知識人’,‘反共’や‘護国’の旗じるしを掲げ、支配者に相応しい宗教人…あくまでも大韓民国の‘日常’に過ぎない。しかしこの‘日常’と質的に違う‘事件’一つに最近深い感動を受けた。まさに高麗大女子学生が魂を失った大学を辞退ないし拒否することにしたことだった。この決定が私たちに投げかける話題は単純に企業化されゆく大学の堕落とこの堕落を煽る‘企業型国家’の問題に限定されはしない。苦痛なこの世の中を人間がなぜ生きるのか、私たちが人生に付与する意味はいったい何かという問題だ。
この女子学生を含む多くの学生たちが‘就職学院’になってしまった大学をこれ以上は我慢できないという。‘就職’とは何か? 生産手段を所有しない多数の無産者が飢えて死なないために、自身の労働力を生産手段所有者らに売る方法、すなわち生存の方法だ。動物ならば単純な生存以上を求めないだろうが、人間と動物の差は人間に生存以上の‘何か’がさらに必要だというところにある。満足な人生の必須条件は生存かもしれないが、充分条件は自我実現、すなわち自分だけの夢を育てることだ。年配の方々を助ける社会福祉士になろうとする夢でも、みんなに‘音’を通じて喜びをあたえるピアニストになろうとする夢でも、何の仕事をしていてもいつも余裕を持って歴史の本を読む人、文学愛好家になろうとする夢でも、夢がない人生はすなわち無意味で苦痛な毎日の連続となる。人がパンのみで生きるのではないという言葉はまさにこれについてした話だ。ある程度、福祉国家の基礎が安定した社会では、大学という夢を探しに来る所と認識される。4年前に筆者が在職する大学の中国学専攻学生150人に尋ねた結果、専攻を選択した時に中国の経済的浮上や就職の可能性を考えた人は3~4人に過ぎなかったという。残りはただ魅力的に感じられる中国との "出会い" を望んできたと答えたが、これが正常な勉強観だと見なければならない。
私たちの現実はどうなのか? 社会福祉士を夢見ても、社会福祉士の59%が非正規職として苦労しているという現実の前で、卒業後に非正規職に転落し授業料貸し出し金を返す能力もないのではないだろうかと怖くなり、個人レッスンの天文学的費用と音楽家就職市場の飽和状態で家が裕福でない限り音楽家になろうとする夢を当初から捨ててアルバイトと‘スペック’積みに気が気でなくて、人文書を読むことを‘贅沢’と感じることになり、…、社会によって制御されない市場の支配下に住む人々には生存自体が永遠に不安で、夢まで考える心的な余裕ができるわけがない。ただ‘パン’のために前だけを見て、ずっと走らなければならないだけだ。企業型国家、企業型大学の現実では、私たちは夢を奪われたまま毎日毎日単純生存のために悪戦苦闘しなければならない‘動物’とならざるをえない。動物農場となった大学を脱出し‘人間’としての自分だけの道を探そうとしたことが、今回の‘大学拒否事態’の本質ではなかったか? 弱肉強食のジャングルと化した社会に対する‘拒否’を宣言しない限り、人間としての面目を取り戻すことが難しいのが今日の大韓民国の姿だ。
パク・ノジャノルウェー,オスロ国立大教授・韓国学
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/413085.html 訳J.S