原文入力:2010-03-23午後08:14:15(1639字)
ホン・セファ記者
←ホン・セファ企画委員
キム・ヨンチョル弁護士の<三星を考える>は今日の大韓民国を知るために欠かせない必読書だ。特に国家機関らが三星の前でどれほどみじめにゆがんでいるのかを明らかにする。三星経営陣が天文学的数字の秘密資金をばら撒く時、国家機関らは不法と不正を覆い隠すことによりその恩恵に報いた。‘法の権威が支配する’近代国家の自律性が確実に崩れたのだ。インターネット新聞<プレシアン>を中心に三星不買直接行動を要求する声が広がっているのは、何より国家に裏切られた市民の怒りから始まった。
三星権力は選出された権力ではない。しかし、すでに国家を掌握した。"権力が市場に移った" という盧武鉉前大統領の話は、参加政府もやはり三星の手中にあったという意味から大きく外れない。三星権力の前で検察はもちろん特検も、国税庁と金融監督院も、国会と司法府も、法と正義の実現を要求する国民の‘もしかしたら’という期待を‘やはり’に変え一つ一つ裏切った。全て存在理由を自ら否定したのだ。李明博大統領はイ・ゴンヒ総帥個人を特別赦免することにより、‘国家は資本の召し使い’という批判的国家論でいち早く提起された命題を明確に確認してくれた。
盗みの過程を一度無事に通過した泥棒はより一層果敢になる。今後、三星経営陣の不法と不正,会計操作と脱税,そして労働搾取はより一層ためらいなく進むだろう。労働組合すらない三星資本の万能に対抗することができる力の源泉は消費者にしか残っていない。たとえ少数だとは言え、目覚めた市民たちは金銭的損害と不便を甘受する態勢だ。躊躇する度に自ら問うだろう。私の子供たちにこの醜悪な社会をそのまま譲り渡すのか。そして私が今日小さな便益を追求する度に、それが私の子供,私の弟妹に屈従の重い鎖となって戻ってくるだろうということを繰り返し再確認するだろう。
資本主義社会で、ある社会が自由と屈従の間のどの辺に位置するかを規定するものは資本権力に対する市民社会の牽制と均衡の力だ。それは窮極的に生産する労働者と消費する市民の資本に対する認識と、それにともなう行動にかかっている。繰り返し強調するが、労働者が生産を止めたり消費者が消費を止める時、資本権力は立つ瀬がないからだ。資本主義社会に無料がないように、自由にもまた黙っていて得ることはできない。個人であれ組織であれ自由を指向しようとするなら不便と困難を代価として払わなければならない。
企業が国民経済に服従するより国家が企業に服従する、いわゆる‘起業に良い国’で、市民の‘三星不買’直接行動は簡単に‘反企業’に進み、‘反社会’‘反国家’と罵倒されやすい。しかし、国家をもてあそび無労組を貫徹する三星経営陣よりさらに反社会的で反国家的な存在がいったい何処にいるのか、尋ねて当然だ。ヨーロッパの労働者が「無労組を貫徹する三星になぜボイコットで対応しないのか」と尋ねたように、三星不買運動は民主労総が本当に‘剛性’ならば、かなり以前から行っているはずだ。三星が誰もが話す‘グローバル経済’に相応するブランドになるためにも三星不買直接行動は毒杯ではなく薬だ。
本当に戦いを行った時に歴史は進化する。この間、近代性を主に強調してきた私自身から自ら誓わなければならない。資本権力との戦い、その頂点にある三星権力との戦いを回避して、労働運動はもちろん福祉と分配を語るのをやめよう。社会進歩や民主主義成熟を、生態,両性平等,正しい教育,少数者人権を語るのをやめよう。それはタタのアリバイに過ぎない。
ホン・セファ企画委員 hongsh@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/411835.html 訳J.S