原文入力:2010-02-07午後09:39:36(1710字)
←カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授
"朝鮮時代高位官僚に出世した祖先の墓を見て胸がいっぱいになった幼い時期の記憶があります。 …母上は常に私に‘貴君’という呼称を使いました。例えば学生時代の私に‘貴君、我が家は大臣が途切れて3代目になることを知っているか’というお言葉をたびたび言われました。" チョン・ウンチャン総理が去る2004年ソウル大総長時期にインタービューでした話だ。
"うちの祖父もいつも私を見るたびに‘いつ江陵市長になる?’と言われましたね。ソウル大学を卒業してまた留学に行くと言ったら理解してもらえませんでした。大学教授になりたいと言ったところ、‘大学教授は長くやるものじゃない。人は須らく国の禄をはんで生きなければならないのだ’と言われましたよ。‘江陵市長で足りなければ江原道知事をしなさい’と言われました。 …私にも似たような話があります。英文科に行くと言ったら母方の伯父が曰く‘それをして何になるのか?’歯科大学に通っていた従兄がそばにいて‘英語が上手くなれば米国大使もできます’と言いました。すると母方の伯父がまた言いました。‘それでいいのか?’"
去る2005年チェ・ジェチョン梨花女子大教授とト・ジョンイル慶煕大教授が<対談>という本でした話だ。現在放映中の<韓国放送>(KBS)ドラマ‘勉強の神’(ユ・ヒョンギ演出)と去る1月に放映された<SBS>スペシャル4部作‘出世万歳’(ナム・キュホン演出)をおもしろく視聴し、上に引用した三人の言葉を思い起こした。いやそれ以前にチョン・ウンチャン氏が総理になるのを見た時にも‘大臣が途切れて3代目’という彼の内部事情を思い出さずにはいられなかった。
出世! 理念よりはるかに強く濃く丈夫な恨だ。政治と社会を分析する韓国の社会科学がしばしば陥る陥穽も‘出世’の問題を避けたまま‘理念’中心に流れるところにある。ある程度の出世をした人々にだけ社会的発言権が与えられるので、社会的発言をする人々は自身の内面世界にまで絡まっている出世の問題を知らず知らずの内に無視したがる。
今の韓国政治は有権者の立場で見る時には、左右の戦いでもなく進歩-保守の戦いでもない。出世した人と出世できない人々の間の戦いに過ぎない。選挙の時節に有権者に尋ねてみなさい。どこでも 「もう相当にちょろまかしたじゃないか!」という話を簡単に聞くことができる。高位公職を出世と見なす有権者たちは、反対に分け合って食べろという‘分配の正義’に透徹している。選挙の度に‘総入れ替え’が大幅になされれば、報道機関と知識人たちはもっともらしい分析を出すが、総入れ替えの主要原因は政治家と高位公職者は自身の出世欲充足のために国民からせびり取って暮らす人々だと見ている有権者たちの視線だ。
出世欲が悪い? とんでもない話だ。それは今日の韓国を作った原動力だ。私たちが誇らしいと考えても良いくらいだ。ところが、なぜ我が国は出世に対して否定的であったり冷笑的だったりするのか? 逆説のようだが、私たち皆が出世を切実に望んでいるためだ。それなら出世できない人々は腹が痛くてそうだったのか? そうではない。問題の本質は出世価値の画一化と序列化にある。多様性が尊重されれば、出世をしようとする人々も手段と方法を尊重し天命に忠実であり、したがって私たち皆が他人の出世を肯定的に眺めることも可能になる。
世の中を変えられる最も強力な手段は政治だが、政治は既存出世価値を変えられない。出世価値を変えられなければ政治は出世の手段に過ぎないという不信の陥穽から抜け出すことはできない。韓国社会が置かれているジレンマだ。歳月が薬かもしれないが、まずは高等学校で名門大に学生をたくさん送ったと威張る垂れ幕を掲げることから中断すれば良いだろう。
カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授