原文入力:2010-01-22午後09:22:26(1124字)
<文化放送>‘PD手帳’製作陣に対する裁判所の無罪判決を契機に<朝鮮日報> <中央日報> <東亜日報>等、親政府巨大新聞の司法府たたきが自ら言論の存立根拠を崩れさせる水準に展開している。今回の判決の核心は、言論の政府政策に対する批判が保障されなければならないということだった。まともな精神状態ならば、言論がこういう趣旨の判決に対し謗り攻撃することはないだろう。それでもこれらは言論の批判機能が今は国を危険に陥れていると攻撃する。盧武鉉政府の時、これを前面に掲げてことごとにケチをつけたのがこれらの新聞だった。
これらは裁判所を攻撃するために事実わい曲もはばからない。検察側の核心証人として出て、法廷で陳述を翻意し嘘を認めたある翻訳家まで前面に掲げ判決を攻撃していることがその代表的例だ。これらは今でも狂牛病に対する国民の不安をインターネット怪談のせいにしている。検察側主張だけをオウムのように騒ぎ立て、PD手帳製作陣を攻撃した自分たちの態度に対する最小限の反省もないことはもちろんだ。
司法府に対するこれらの態度は懸案の性格により正反対の態度を見せたりもする。昨年、シン・ヨンチョル最高裁判事に対する弾劾の話が出た時は、裁判官の身分独立が脅威を受けているとし、シン最高裁判事を擁護するかと思えば、今は判事個人に対する攻撃を越え司法府全体を揺るがし三権分立を威嚇する攻勢まで展開する。論理的に苦しくなるや、判決と関係のない私たちの法研究会を引き込み事態を理念対決に追い込んでいる。法理問題に‘国民の憂慮’を突きつけたり、民事と刑事裁判の差を無視するのはこれに比較すればささいに見えるほどだ。
よくこれら新聞を‘保守新聞’というが、これは相応しい呼称ではない。保守勢力は既存の価値を守る勢力だ。これらが守ろうとする価値の中には、司法府の独立と言論の自由が当然含まれる。だが、これら新聞は今自分たちの気に入らない判決を攻撃するために、こういう価値を使い古した履物のように取り扱っている。自由民主主義も、憲政秩序も、食欲により思いのままにねじるならばそれは私益に目がくらんだ集団といわなければならないだろう。
これら新聞が二重定規で言葉を変えることを日常的に行うのは、昨日今日のことでない。だが、言論の存立基盤までを自ら崩すのというのは普通のことでない。一日も早く理性を取り戻すことを願う。
原文: 訳J.S